今回は、動物に関連する心理、つまり、人間よりも動物を優先する心理や、逆に動物よりも人間を優先する心理の両方について、その背景にあるものを見ていきます。また、その他さまざまな動物に関わる私たちのバイアスを紹介します。
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はじめに
クマが人里まで下りてきて危害を加えるというニュースが増えましたね。
これに対して「今すぐクマを絶滅させるべき」というコメントした東京都の市議会議員がいましたが、そんな単純な発言をしてしまう議員の方がクマよりも危険なので、このような議員こそ絶滅してほしいですね。
一方で、「クマが可哀そう」「クマを殺すな」とSNSなどで声を上げる都会の人たちに対して、「だったら自分がここに来てクマを保護しなさいよ」とコメントした北海道福島町のお母さんがいましたが、これは痛快でした。
私たちの周りには、偏った単純な見方しかできない人があふれています。表面的な理解や感覚的な発言をするだけで、物事を深く考えてから話すことができません。本サイトではそのような内容の記事を幾度も書いてきました。
今回は「動物」に絞って、動物に関連する心理、つまり、人間よりも動物を優先する心理や、逆に動物よりも人間を優先する心理の両方について、その背景にあるものはいったい何なのかを見ていきます。
これには、心理学、倫理学、社会学、進化生物学など複数の分野の視点が含まれます。なぜなら、個人の感情や好みの問題だけでなく、文化、進化、法制度、道徳、経済、社会構造などさまざまな要因が同時に作用しているからです。
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動物よりも人間を優先する心理
では初めに動物よりも人間を優先する心理の背景について見ていきましょう。これは人間の本能でもあるので、説明するのは簡単です。ただし、人間が地球上で最強の生物となった今、本能に任せた行動ばかりしていると、最終的に自分たちの首を絞めることになります。
1.人間中心主義(Anthropocentrism)
背景にある根本的な概念は、人間中心主義(Anthropocentrism)です。人間が地球上で最も価値があり、他の生命よりも優先されるべきという考え方であり、人間優先の倫理観です。
あからさまにそのように主張する人はほとんどいませんが、実際はとても多くの人たちに浸透しています。
人間の安全、幸福、文化が最優先され、「自然や動物は人間の生活を支えるための資源や食料」と考えています。人間は自然の一部ですが、そのような当たり前の事実すら忘れています。無意識のうちに「人間社会と自然は別」「人間の行動と環境は切り離されている」と思っています。
そのため、動物や環境が変化しても、それを人間の行動への反応とは捉えません。代わりに「動物が変化した」「自然がおかしくなっている」と解釈します。
クマ問題では、冒頭の議員のように「人を守るためなら駆除どころか絶滅させることも正当」という主張と結びつきます。
2.種差別(Speciesism / スピーシズム)
種差別(Speciesism)とは「人間を他の動物より優先すること」に加えて「特定の動物を他の動物より高く価値付けすること」も意味します。
つまり「人間 > 動物」だけでなく、「犬 > 豚」「猫 > 鶏」というランク付けをします。なぜなら犬や猫は人間の仲間だからです。動物同士でも、人間から見たかわいさ、親しみやすさ、役割、文化的価値によって序列が異なるのです。種差別は人間中心主義の延長線上にある考え方です。これについては後ほどより詳しく説明しましょう。
3.内集団バイアス(In-group bias)
なぜ、人間は自分たちの仲間を守るのでしょうか?
人類の進化の中で、仲間を作り、グループを守ることで生存をつなげてきた進化心理学的な歴史があるからです。仲間ではないもの、グループを脅かすものは生存リスクとなりうるため、 本能的に排除欲求が働きます。
脳は外界を効率的に処理するため、対象を「自分たち」と 「それ以外」にグループ分けしています。外のグループには警戒しやすく、内のグループには寛容になります。
自分が所属するグループを優先する思考を、内集団バイアス(In-group bias)と言いますが、これは人間と動物の間だけでなく、人間同士でも起きるバイアスです。

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人間よりも動物を優先する心理
次に、人間が動物やモノに感情移入して、それらを人間よりも優先してしまう心理を見ていきましょう。これらにも、多くの関連する概念が絡まっています。
1.動物中心主義(Animal centrism, zoocentrism)
動物中心主義は、人間よりも動物の権利を優先する価値観や考え方そのものです。極端な場合、人間の犠牲があっても動物の保護を優先すべきだという思考に至ります。
2.擬人化(Anthropomorphism)
擬人化とは、動物やモノに人間のような感情や特徴をあてはめることです。たとえば、動物に「寒いわね」とか「きれいになりたいね」とか「わざとやったでしょ!」といった人間の概念や感情を投影します。
動物にも感情はあります。しかし、それは人間と同じではありません。それなのに、動物があたかも人間であるかのように考えます。
なぜ擬人化が起こるのでしょうか?
私たちの脳はすでに頭の中にあるパターンと出来事を結び付けようとするからです。そのため、馴染みのない何かを理解しようとするとき、自身の内部モデルを投影するのです。
また、馴染みのなさが擬人化を助長する側面もあります。特に、野生動物に遭遇する機会が少ない人は、実体験に基づく知識不足を、映画やアニメ、子供の頃に見た物語、文化的な神話などで補おうとします。そのため、生態学的な理解ではなく「物語の中の動物像」が強化されます。
野生動物に囲まれて育った人たちは、動物に関する実践的な知識を持っているため、擬人化をあまり行わない傾向があります。
3.愛着と絆(Attachment and bonding)
人間は、人間以外のものとも、感情的な関係を築くことができます。
子どもたちは、ぬいぐるみやおもちゃと絆を深めます。大人はペットや植物に話しかけることで、感情的な幸福感を高めることができます。社会的なつながりは人間の深い欲求であり、動物はそれを満たすことができます。
ひょっとすると、私たちは、災害時にペットを助けるために、他の住民を置き去りにするかもしれません。それは見知らぬ他人よりも、共に過ごしたペットへの愛情と絆の方が強いからです。
4.かわいさバイアス(Cuteness bias)
かわいさバイアスは、先ほど紹介した種差別(スピーシズム)と重なる考え方です。動物中心主義は一言で表されるほど単純ではありません。人は見た目に影響されます。つまり「かわいい動物」に道徳的価値を感じるのです。
リスボン大学研究所(ISCTE)の研究チームの、学術誌「Animals」に掲載された論文があります。(1)
研究者たちは、ポルトガルの成人509人に、1から7までの尺度を用いて、11の項目で動物を評価するよう依頼しました。その結果、道徳的な関心や保護の気持ちの違いは、他のどの要因よりも、その動物の「可愛らしさ」と関連していることを発見しました。
また、オーストラリアの研究者たちによって、人は、美しい動物を殺すことの方が醜い動物を殺すことより道徳的に間違っていると考えることが分かりました。(2)
なぜ、かわいい動物への優先順位が生まれるのでしょうか?
かわいい動物は人間の赤ちゃんを連想させるというものがあります。実際、大きな目や優しい顔立ちといった特徴を持つ動物は、愛情本能を刺激するという報告がいくつかあります。犬、猫、パンダ、コアラなど、赤ちゃん顔、丸さ、表情によって、より強い共感が引き起こされるのです。

5.共感(Empathy)と過剰共感(Hyper-empathy)
今説明したように、私たちは、人間だけでなく、その他のかわいい動物に対しても共感することができます。しかし、行き過ぎた共感は、バランスを欠いた判断をもたらします。以前書いた記事『エンパシーとコンパッション』でも説明した通りです。
なぜクマ被害を受けている地域の人たちではなく、クマの方に共感してしまうのでしょうか?
それには、ミスアロケーション・オブ・エンパシー(misallocation of empathy)も関係しています。共感の「配分ミス」です。苦しんでいる人たちよりも、動物に感情が集中して倫理的な優先順位がずれるのです。
6.倫理的部分性(Moral Partiality)
倫理学には「人間は近しい者ほど道徳的に優先する」という考えがあります。アフリカの難民よりも日本の災害被害者が優先され、遠くの学校の事件よりも自分の子供が通う学校の事件を深刻に受け止めます。
人間から多くの共感を得ることができる動物は、近しい存在であると認められます。他の動物よりも内側のカテゴリーを与えられ、優先されるのです。かわいい、醜いの違いだけでなく、宗教や神話などで文化的に神聖視される動物も優先されます。逆に不浄とされる動物は不当に低く扱われ、道徳感も抱きません。
7.代償的道徳行動(Moral Compensation)
人間が動物を苦しめていること(工場式畜産、動物実験、生息地の開発)に気付き、その罪悪感を軽減するために動物保護を訴えることもあります。
自分の行動と価値観を一致させるために動物中心の倫理観に走るのは、認知的不協和(cognitive-dissonance)を対処するためでもあります。人は、自分が問題の原因だと信じたくないため、自分の行動を変えるのではなく、自分の考え方を変えて、自分の中にある矛盾(認知的不協和)を解消しようとします。
多くの人が「私には問題はない」と思い込み、自己防衛を図り、自分のアイデンティティを守ります。責任を否定する方が、行動を変えるよりも簡単だからです。
8.人間への幻滅の反動
人間社会に対する嫌悪感や不信感や不満の反動として、動物や自然保護に傾倒し、自己肯定感や倫理観を保とうとする心理もあります。
動物は人間より無垢で純粋で、守るべき存在です。こうした認識は、動物が理想化され、人間が道徳的に格下げされるという、道徳的な歪みを生み出す可能性があります。
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その他のバイアス
さて、ここまで、人間よりも動物を優先する心理と、動物よりも人間を優先する心理について書きました。しかし、それだけでは、最近のクマ被害の背景にある心理を説明し切れないことに気が付きました(汗)。
クマ問題に関しては、その他さまざまな心理が関わっています。少し長くなりますが、それらも紹介していきましょう。
1.理性的な動物ファラシー(Reasonable Animal fallacy)
私たちの中には、無意識のうちに動物が人間と同じような理性を持っているという思い込みをしている人がいます。先ほど紹介した擬人化に通じる考え方です。
「なぜクマは人間の生活圏に入って来るのだろう?」「どうしてクマは分からないのだろう?」「最近のクマは人間を甘く見ている」などは、クマが人間と同じような知性を持っていることを前提にした発言です。
クマは人間に対して悪意を持ち始めたわけではありません。町中に入ることを倫理的に間違っているとも考えていません。罪悪感も感じませんし、道徳的な判断も下しません。
クマは、山の餌が少なくなり、人里には餌があるから、餌に引き寄せられて、町中に出現しているのです。クマの本能や習慣に従って生き延びようとしているだけです。
人間の意図が分からないのは、人間と同じ知能を持っていないからです。
まあ、クマが人間を理解しないように、人間もクマを十分に理解していないですよね。
2.テリトリアリティ(territoriality:領域性)
私たちは他国が自国の領土を侵害することにとても敏感です。個人レベルでも、自分の家に他人がズカズカと入り込んでくれば、かなりの抵抗感を覚えます。同様に、動物が人間の居住地域に侵入してくると過敏に反応します。
これは資源や安全を確保しようとして、自分の場所を守り、他者の侵入を防ごうとする心理的、生物学的性質で、人間だけではなく、多くの動物に備わっています。
一方で、人間が動物たちの生息地に侵入したり、開発によってその生活を完全に奪い去っても、何も思うことはありません。
3.根本的な帰属の誤り(Fundamental Attribution Error)
クマが町中に出てくるようになった背景には、過疎化が進み、里山が放置され、伝統的な土地の管理ができなくなった人間側の都合があります。
クマは山に食べ物が少なくなった一方で、里山には人が少なくなり、街には餌があるから降りてきているのです。ケーキやご馳走をあちこちに放置しておきながら、幼い子供に「食べちゃだめでしょ!」と怒鳴りつけるようなものです。
どちらかと言えば、クマが変化したのではなく、人間側が変化したのです。
これには、自分のことは棚に上げて他者を責める「根本的な帰属の誤り(Fundamental Attribution Error)」や「自己奉仕バイアス(Self-Serving Bias)」が影響しています。
「根本的な帰属の誤り」は、自分が「行為者」になった場合と「観察者」になった場合で見方が違うバイアスです。私たちが行為者である場合は、外的要因に意識が向かう一方で、観察者である場合は、行為の当事者に注意が向くバイアスです。
「自己奉仕バイアス」は、自分に都合のよいことは自分に帰属させ、都合の悪いことは他者に帰属させるバイアスです。
これらのバイアスによって、私たちは次のように捉えるのです。
- ここ数年おきている環境変化 → 自然の変化のせい
- クマがより多く見られるようになった → クマのせい
- クマが人を襲った → クマが狂暴になった
- 今年はドングリが実らなかった → たまたま不作の年だった
4.利用可能性バイアス(Availability bias)
先に説明した種差別(スピーシズム)をクマ問題に当てはめると、こう働きます。
都会にすむ人たちにとっては、クマは、ぷーさんであり、可愛い存在です。
しかし、クマ被害を受けている地方の人たちにとっては、危険な害獣です。
同じクマでも場所や立場によって評価が変わるのは、個々が持つ実体験やイメージが異なるからです。
都会に住む人たちにとっては、クマは可愛い、守るべき「距離のある」存在です。リアルなクマは身近な存在ではなく、SNSや動画で見る愛くるしいクマ像が強化されています。「クマ」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、動物園で見たクマや、アニメのクマかもしれません。それによって、感情豊かとか、思慮深い、社交的、優しいといったイメージさえ持つかもしれません。
一方で、実被害を受けている方々には、身近な人たちが遭遇したり、畑を荒らされたり、外出時や通学時の不安など、「距離の近い」存在です。「クマ」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、先日隣町の小学校に侵入してまだ見つからない特定の個体かもしれません。
都会にいる人たちには「自分や家族が襲われたらどうしよう」「外を歩くのが怖い」といった、日常が奪われるストレスや恐怖をくみ取ることができません。
このように意見が異なるのは、都市に住む人と地方との間の利用可能な情報にギャップがあるからです。
情報の利用可能性によって思考が制限されることを「利用可能性バイアス(Availability bias)」と言います。利用可能な経験や情報の違いによって、価値観や倫理軸が異なります。
「クマによる被害は新しい現代社会の問題」という誤解も、利用可能性バイアスが関係しています。歴史的に、農村地域は野生動物の侵入に悩まされ続けてきました。今に始まったわけではありません。しかし、その経験が共有されていないため、利用可能でなくなっているのです。利用可能性の制限によって、因果関係も見えなくなります。
利用可能性バイアスの他の身近な例として、どの世代も「自分の子供時代が健全な幼少期」と考えますね。「自分が子供のころは、、」とか「自分が若い時は、、」など、子供のころの自分の価値観や行動が「正常」と考え、それと異なる今の子どもや若者たちを批判的にとらえます。
自分の経験が絶対であり、自分の経験と違う経験を評価しないのです。これには自己奉仕バイアスも関与しています。つまり「今の若者たちは、、」という言葉は、時代を超えて、永遠に繰り返されるのです。
5.二極化(Polarization)
クマ駆除派とクマ保護派の両極端な立場に固執する人たちがいるのは、1つの考え方しか受け入れられず、2つの相反する考え方の両方を受け入れ、その中間的なバランスの取れた判断ができないからです。
クマのみならず、私たちの意見は、両極端に分かれる傾向があります。
以前書いた記事『二極化などの極端な考え方、ソーシャルメディア、認知のゆがみの関係性』でも紹介したように、SNSなどが勧めてくる極端な情報を真に受けて、偏った考えを強化していく人も増えています。
6.単純化(Oversimplification)
意見の二極化は、問題の単純化でもあります。
クマ問題には、「周期性」「気候変動」「人口減少」「過疎化・高齢化」「里山の荒廃」「ハンターの減少」「体系的な対応の欠如」「クマの個体数の増加」「親をなくした小熊の存在」「生息地の開発」「伝承の断絶」「農地や畑の放置」「果樹の管理」「経済」「予算」「暮らしの変化」「働き方の変化」「アーバン化」などさまざまな要因が絡まっています。クマを殺せば解決する単純なものではありません。
もはや、私たちの社会的な問題に単純なものはありません。さまざまな要素が重なり合っています。しかし、人間は分かりやすい説明と単純な解決策を好みます。単純な答えは、たとえ効果がなくても、感情的な満足感を与えることができます。
7.政治のせい
私たちが抱える社会問題は、必ずしも政治がすべてを解決するものではありませんし、政治にすべての責任があるわけでもありません。しかし、私たちは何でも政治のせいにする傾向があります。
「守ってほしい」「早く捕獲しろ」「人を増やせ」「税金は上げるな」「政府は何をやっているんだ」
自分たちで何とかしようと解決策を考える人は多くありません。政治の肩を持つつもりは毛頭ありませんが、それにしても、私たちはいつから何でも政治の責任にするようになったのでしょうか?
これには、集団のストレスや不安、不満の矛先を特定の個人やグループに向けて責任を負わせて、自分の責任は回避する「スケープゴート心理(Scapegoating)」や権威主義、先ほどの根本的な帰属の誤りや自己奉仕バイアスが関係しています。
8.メディアの認知バイアス(media bias)
メディアも、ここまで紹介してきたようなバイアスの強化に加担しています。
メディアも人間の集合体なので致し方ありませんが、メディアが問題なのは、大量の人にメッセージが繰り返し届き、利用可能性バイアスを増強してしまう点です。
テレビのニュースでは、次のようにクマニュースが取り上げられます。
「〇〇県〇〇町のスーパーにクマが侵入しました。」
「〇〇県〇〇村で、クマが住民を襲いました。」
そして、クマの映像が流れます。さらに「こんなところに出てくるとは」とか「怖いです」などのインタビューが続きます。
人は「恐怖情報」を強く記憶します。連日のクマ襲撃報道によって恐怖感が増幅します。「クマは以前より攻撃的になった」という偏見さえ植え付けるかもしれません。
一方で、次のようなニュースを見ることはほとんどありません。
「この問題を多方面から考えてみましょう」「どうすれば根本的な解決につながるか模索しましょう」
なぜなら、複雑な検証は面倒で、労力と時間がかかり、短い放送枠に収まらないからです。限られた時間でインパクトを残すため、攻撃、危険、恐怖に焦点を当て、感情に訴える報道をするのです。
メディアは、私たちの単純思考も増強しています。このような、感情に強く訴えかける顕著な情報に注意が引きつけられ、他の重要かもしれない情報を見落す認知バイアスを「突出バイアス(Salience bias)」と言います。
「クマが冬眠しなくなる」というニュースも見ましたが、正確には「一部のクマが冬眠しなくなる」でしょう。「冬眠の時期なのにまだ民家の横の柿の木に登って柿を食べている」ではなくて、「冬眠の時期になり山にはもう食べ物はないが、民家にはまだ柿がなっている」でしょう。
旧来のメディアだけでなく、代替的なソーシャルメディアも、クマのフェイク画像など、さらに信憑性の問題が深刻です。
以前、本サイトでは、「問題でなく、解決策を提示するメディア」である『コンストラクティブ・ジャーナリズム(建設的ジャーナリズム)』を紹介しましたが、そのようなメディアがもっと広がってほしいですね。
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さいごに
今回は、人間と動物との関係、特にクマ問題に関する、さまざまな人間の心理を紹介しました。
クマ問題に対する短期的対応として、町中にやってきて人間に危害を加えるクマの処分は避けられません。しかし、長期的には、人間とクマとの健全な距離やバランスを取り戻す必要があります。人間の安全を確保しつつ、クマの生態的なニーズも尊重し、両者の衝突を減らすための方策です。
海外の国々、例えば以前住んでいたアメリカで、私はよくキャンプに出掛けていましたが、クマと人間の距離感を維持する方策が明確です。ベアプルーフ(クマ対策済み)のゴミ箱の設置、キャンプ場などで食料を車外に放置しないなど、人間の食べ物の味を覚えさせないことが徹底されています。また、レンジャーがゴム弾や雷管音などで、人間は怖い存在と学習させます。これらの対策が浸透しています。
しかし、海外に目を向けるまでもなく、日本の山間の村や農村には、科学ではなく、生活実体験によって積み重ねられたクマ回避の知恵、野生動物と共に暮らすため方法が存在していました。民俗学や地域史などの資料にそれが残っています。それらをもう一度利用可能にすることも大切でしょう。例えば、次のようなものです。
(1)音でクマに「人が来ている」と知らせる
・山へ入るときに熊鈴を使う
・作業中に歌う、笛を吹く
・山菜採りの際に「ヨーホー」「ホイホイ」といったはやし声を出す
(2) 山入りの決まり
・薄暗い朝夕に山へ入らない(ツキノワグマが活動的になる時間帯のため)
・用事がある場合は複数で行く
・子どもだけで山へ行かせない
(3) 食べ物の管理
・生ゴミ・残飯は屋外に置かない
・寝床の近くに食料袋を置かない
・家の外に匂いの強い食べ物を放置するのは厳禁
・魚や肉の処理は川や共同場で行い、家に匂いを残さない
・果実・穀物は夜間屋外に置かない
(4) 耕作地の管理(耕作放棄地の処理)
・薪や下草刈りで、人の匂いや気配を浸透させる
(5) クマとの接触回避
・マタギ、猟師、山守などがクマの行動を観察して村に伝える
・危険な個体がいれば対処
・山で遭わない方角・時間帯を指南
・クマの通り道(獣道)を避けて作業
・風上を歩かず、風下側から山を利用する
・沢沿い、見通しの悪い笹藪、クマザサの密生地に不用意に踏み入れない
・子グマを見かけたり、声が聞こえたら、すぐに離れる
・音が聞こえにくい沢の近くや、強風の日は、大きな声や音を出す
・谷から尾根へ直登しない(クマの逃げ道を塞がない)
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参考文献
(1) Possidónio, C., Graça, J., Piazza, J., & Prada, M., “Animal images database: Validation of 120 images for human-animal studies”, Animals, 9(8), 475., 2019.(2) Klebl, C., Luo, Y., Tan, N. P. J., Ern, J. T. P., & Bastian, B., “Beauty of the Beast: Beauty as an important dimension in the moral standing of animals”, Journal of Environmental Psychology, 75, 101624, 2021.