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変革の書籍紹介:Escape from Freedom 自由からの逃走

  • 投稿カテゴリー:人が変わる
  • 投稿の最終変更日:2024年6月1日
  • Reading time:8 mins read

私たちは社会や組織から束縛されることを嫌い、自由を求めます。しかし、自由とは、その束縛がもたらしていた安心感から離れ、自分で進むべき道を決め、歩んでいくことです。それは責任と不確実さと不安をもたらします。私たちは、その責任や不安を回避するために、自由から逃れ、また束縛へと戻っていくのです。

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はじめに

私は日々本を読んでいますが、時々「これはスゴイ」と心が沸き立つほど、ホントに素晴らしい本にめぐりあうことがあります。この本もそのような本の1冊で、私たちの本質をえぐり取るように、深く切り込み、核心を明らかにしています。

「Escape from Freedom(邦題)自由からの逃走」はユダヤ系ドイツ人の社会心理学者であり、精神分析家であり、哲学者でもあるエーリヒ・フロム(Erich Fromm, 1900 – 1980)が1941年に書いた、彼の最も広く読まれている著作のひとつです。ここで書かれていることは、1941年に書かれたとは思えないほど、今の時代にも通じています。今回は、この本を紹介します。

なお、私はいつものように英語版を読んでおり、日本語版は読んでいません。日本語版との表現の違い等についてはご了承下さい。

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Escape from Freedom:自由からの逃走

私たちは社会や組織から束縛されることを嫌い、自由を求めます。
自由とは、他人に依存せず、自分で進むべき道を考え、決断し、歩んでいくことです。
しかし、自由には先が見えない不確実さと、決断に対する責任が伴います。自由になることで生まれる不安や孤独感はときに耐えがたいほどで、私たちは、その重荷から逃れようとします。そして「自由から逃れる」ために、束縛に戻るのです。
束縛に戻れば、責任を誰か他の人に委ねて他人の文句を言っていればよく、とても楽で、安心感を取り戻せるからです。

身近なことを例を挙げれば、ある会社員が今勤めている会社にうんざりして他の会社に転職しようと考えています。隣の芝生は青く見えます。「もっと良い会社で頑張ろう!」と、会社Aから会社Bへと移ります。しかし、会社Bは外からは青く見えていたのですが、実際入ってみると青くありません。本当の色が見えてきて、だんだんいやになってきます。そして、会社Aにいた時と同じような不平不満を会社Bにも持つようになります。

この「会社」は、「部著」「学校」「チーム」「コミュニティ」など様々な他の「グループ」に置き換えることができます。

私たちはみな、特定の考え方やルールや文化がある「グループ」に所属しています。しかし、その考え方やルールに納得できず、グループを抜けたいと思うことがあります。そして、実際に違うグループに移ったり、新たなグループを作ったり、あるいは不満ながらも同じグループに居続けたりします。人から誘われて違うグループに移動することもあります。しかし、しばらくすると、移った先のグループにも不満を持ち始めるのです。

グループに所属すること自体に問題はありません。私たちはいかなるグループにも所属することなく生きていくことはできません。グループを移動することにも問題はありません。しかし、グループに依存している限り、私たちは同じことの繰り返しから抜け出せません

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「○○からの自由」

「束縛からの自由」や「依存からの自由」は、いずれも「○○がいやだから抜けたい、離れたい」という心情によるものです。フロムは、この「○○からの自由(freedom from)」を否定的自由、消極的自由と表現しています

「○○からの自由」を求めている限り、私たちは真の自由にたどり着けません。
自由は恩恵でもあり、重荷でもあります
もし自由の恩恵をうまく扱えなければ、重荷でしかなくなるため、自由から逃避することを選ぶのです。

人類は「○○からの自由」を達成した後に「その自由から逃避」することを繰り返してきました。
少し難しいかもしれませんが、例をいくつか紹介します。

例えば、中世の封建制度がうまく機能していた時代では、私たちが現在享受しているような自由はなく、生まれながらにして将来の職業まで決まってしまうことがほとんどでした。自由がない一方で、社会の中に安全で確かな自分の居場所があるという保証を与えてもいました。

封建社会にほころびが生じ、ルネサンスや宗教革命を経て市民革命によって抑圧から解放された人たちは、それまで手にしたことのない自由を手に入れます。しかし、勝利して手に入れた新たな特権を守ろうとするものの、自ら未来を切り開かなければならない状況でどうすればよいのか分からず、その責任に耐え切れなくなります。結局、自由の敵であるものに身をゆだね、新しい依存と服従の形を自ら選択したのです。

フロムは、国が否定的自由(○○からの自由)を経験すると、否定的自由を手に入れた国民はその後権威主義的な体制に服従する傾向があると述べます。

第一次世界大戦後のドイツでは、民族の誇りを回復するために新しい秩序を求める人々の欲求がナチス支持につながりました。
多くの人たちは、権威主義はごく少数の個人の狂気によるものだと考えますが、ドイツの何百万という人々が、自由のために戦ったのと同じように、自由を手に入れた後に、自分たちが勝ち取った自由を放棄することを望み、自由から逃れる方法を模索したのです。

フロムは民主主義と自由についても考察しています。

民主主義や資本主義、工業化は、私たちにかつてない外的な自由と物質的な豊かさをもたらしました。しかし、外的な自由は、内的な自由なしには、決して十分に活用されません

私たちは、かつての全体主義的な影響からは解放され、資本主義の恩恵を受けています。しかし、同時に資本主義に支配されてもいます。経済を回す歯車となることを強要されています。資本主義は、同じ嗜好を持つ大量の消費者がいるとより効果的であるため、私たちは他の人たちと同じような物質的欲望を持つように仕向けられます。

私たちの社会は、自立や自由と言いながら、命令に逆らわらず、社会に迎合することを求めます。
過去の時代とは異なり、現代社会では、仕事、友人、パートナー、住む場所、ライフスタイルなど様々なものを個人が自由に選べます。しかし、裏を返せば、私たちには選択の責任があり、自分で何もしなければ何も起きないことを意味してもいます。私たちは自分では大きな決断をしたくありません。そsのため、私たち自身が歯車であることを望み、誰かが回し続けてくれることを望むのです。

権威に依存して、代わりに決断してもらうのです。もしくは決断を避けてその他の何かにひたすら依存し続けます。

民主主義に対する脅威は、全体主義や権威主義ではなく、私たち自身が、依存に勝利を与えてきたことです。戦場は、私たち自身と私たちの社会の中にあるのです。

さらに、フロムは、この過程を、子どもの発達過程にもなぞらえています。

母親の胎内から出た後も、乳児は機能的には母親の一部であり続けます。子供になってもしばらくは親の保護下にあり、自由は限定されますが、安全です。子どもたちは成長するにつれて、徐々に、母親や他の対象を自分とは別の存在とみなすようになります。親の保護から離れ、次第に自分で選択しなければならないことが増えていきます。
友人や恋人、そして学校や仕事や自分が持つ家族のことなど、これらの選択は多岐に渡るとともに、徐々に責任は重くなっていきます。

その分離と個体化への一歩一歩が、成長と呼応していれば、子どもの発達は調和のとれたものになりますが、実際はそうなりません。
個々の人間となっていく個体化のプロセスは自動的に起きますが、自己の成長は個人的、社会的な理由で妨げられます。
子供たちは好奇心にあふれて生まれてきますが、その好奇心は摘み取られていきます。教育や文化や社会の仕組みが、自己成長ではなく、子供たちに対して社会に適合するように、社会が期待するものを望むように誘導していきます。
それは自己成長を妨げ、耐えがたい孤独感と無力感をもたらし、逃避の精神的メカニズムにつながっていくのです。

さらに言えば、この人間の生物学的弱点が、私たちの社会や文化の基礎をなしているのです。

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自由がもたらす脅威から逃れるための3つの方法

フロムは、自由の脅威から逃れ、安心感をもたらすための3つの方法を挙げています。それは権威主義、破壊主義、適合主義の3つで、それぞれ具体的には次のようなものです。先ほど挙げた事例もこれらのいずれかに当てはまります。

1.権威主義: 権威主義者には、権力を振るい支配する側も、支配される側も含みます。支配される者は、支配する者を必要とし、支配する者は、支配される者を必要とします。つまり、お互いがお互いを必要とし、依存しあっています。どちらも、自分自身の独立したアイデンティティから逃れ、自らを他者と融合させ、同じシステムの一部となって、それぞれの役割を果たし、自由から逃れようとします。

2.破壊主義:権威主義のシステムに相容れない脅威に対して、人は、自分に危害が加えることを恐れ、その前に脅威を破壊しようとします。もし、排除することに成功すれば、孤立であることには変わりませんが、外的な脅威からは解放されます。

3.適合主義: このプロセスは、フロムが言うところのオートマトン的適合です。「オートマトン」とは「ロボット」のことです。自由な思考を避け、社会の規範的な信念や標準的な思考回路を受け入れます。
この種の逃避は、権威主義的なヒエラルキーがあまりない現代社会に多く見られます。私たちは、権威主義時代とは別の方法で安全を見い出します。私たちは、権威主義の代わりに大衆文化や社会規範の中に隠れるのです。社会に組み込まれ、他人と同じような行動を取り、同じ考え方をして、同じようなものを消費することで、不安を和らげ、安心と平安を得るのです。
その適合が完全に定着すると、自分の考えが自分のものではないのにも関わらず、自分のものだと勘違いし、それに自分がまったく気付いていないこと状態にさえ陥ります。

もし、社会の他の人たちと同じように振る舞い、同じように話し、同じように考え、同じように感じるなら、私は群衆の中に消え去り、自分の自由を認める必要も、責任を取る必要もなくなる
~ エーリヒ・フロム

If I look like, talk like, think like, feel like… everyone else in my society, then I disappear into the crowd, and I don’t need to acknowledge my freedom or take responsibility.
~ Erich Fromm

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「○○からの自由」ではなく「□□への自由」

フロムは「○○からの自由(freedom from、消極的自由)」と「□□への自由(freedom to、積極的自由)」を区別しています。私たちに必要なのは肯定的な「□□への自由」であり、自律と個人の創造の自由、すなわち「□□する自由」や「□□である自由」です

私たちは1人では生きていけません。私たちの生活は、他の人たちから助けられたり、お互いに助け合ったりして成り立っています。しかし、助け合うことと依存することは違います。私たちは、他人に支配されたり、従属したり、抑圧される必要はありません。他人との関係を持ちつつも、自律し自立した自分になるのです。

しかし、私たちはここでも気を付けなければなりません。
私たちが自由意志と思っていることのほとんどは自分の内面から来ているものではなく、社会にそのように考えるように仕組まれた結果だからです。「□□への自由」を実現するためには、完全に統合された自律的な個人である必要があるのです。

人は平等に生まれてくるが、人は同じではなく、違って生まれてくる
~ エーリヒ・フロム

Men are born equal but they are also born different.
~ Erich Fromm

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さいごに

フロムは出版から25年経った1965年に本書の前書きを再度書いています。
彼が出版当初に書いた社会的、心理的傾向が存在し続けているのか、それとも減少傾向にあるのかを問い直しています。そして、その四半世紀の間に、人間が自由を恐れ続けているだけでなく、その恐れがさらに増大したことに疑いがないと書いています。フロムは1980年に亡くなっていますが、もし58年後の今である2023年を見て、もう一度前書きを書くとしたら、今度は何と書くでしょうか。

私たちは21世紀を生きていますが、心はまだ石器時代を生きています。多くの人たちは、自立し、理性的で、客観的であるための成熟さをまだ全然身につけておらず、自由は自己を脅かす脅威であり続けています。

取り返しのつかない過ちを犯さないように、客観性と理性を高めて、私たちの社会的存在の本質に対する認識を深めることが必要です。

人間が何十万年かけて形作ってきたものから脱却するには、何千年もかかるかもしれません。
しかし、この重要な瞬間に、たとえそれが僅かな前進に過ぎなくても、私たちは少しづつでも進歩し続けていかなければなりません。そのわずかな洞察力や客観性の差が、未来を大きく動かすことになるのです。

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