住宅危機、NIMBY、CEQA―『Abundance』が提起する「規制緩和による豊富さの実現」は本当に正しいのか?過剰規制と無責任な開発の両方を避け、「速く動くことができ、かつ責任を伴う」社会システムの必要性を探ります。
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はじめに
私は今現在、本業ではアメリカの不動産開発の仕事をしています。
日本ではここ数年、数十年ぶりに上昇し始めた物価と共に、都心を中心に住宅価格の高騰の問題が報道されています。しかし、米国における物価高騰や住宅事情はさらに深刻で複雑です。
今回紹介する書籍『Abundance(邦訳)アバンダンス:豊かさ』の中で、その著者であるジャーナリストのエズラ・クライン(Ezra Klein, 1984 -)とデレック・トンプソン(Derek Thompson, 1986 -)は、住宅危機、医療システムの崩壊、インフラ整備の停滞、クリーンエネルギーの導入の遅れといった今日の社会問題の多くは、資源や技術の問題ではなく、社会に必要なものを作ることを困難にしたり阻害する制度的・政治的障壁に起因していると主張します。
環境を守る、民意を反映する、プロセスの健全さと公平さを確保する、そのために設けられたさまざまな規制と手続きの複雑さが、実質的にものごとを動かなくしています。
この主張は一見明快で説得力があります。しかし、本当に規制を取り払えば問題は解決するのでしょうか?複雑な社会問題に対して、この処方箋はあまりにも単純すぎるのではないでしょうか?
今回は、本書の論点を紹介しながら、この問いについて考えていきます。
なお、現時点では本書の日本語版は発売されていません。
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カリフォルニアの住宅危機は単なる住宅問題ではない理由
『Abundance』の論点を理解するには、本書で頻繁に登場し、かつ米国で繰り返し取り上げられる具体的な社会問題である、住宅問題を例に挙げるのが分かりやすいでしょう。
特にカリフォルニア州では住宅価格の高騰、庶民に手が届く価格帯の住宅不足は深刻で、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンノゼといった大都市圏では問題が顕著です。
若い世代はますます住宅を所有できなくなっており、いったん独り立ちできたとしても、住居費の高騰によって親の住居に戻ってくることは珍しくありません。
背景には様々な要因がありますが、その中に、厳格なゾーニング、環境審査の要件、長期にわたる認可申請プロセス、そしてNIMBY(ニンビー)と呼ばれる地域住民の強い反対があります。
NIMBYは「Not In My Backyard(私の裏庭にはお断り)」の頭文字で、近隣の新たな開発によって自宅の住環境が悪化したり資産価値が下がることを懸念して、周囲が開発されることを拒否する人たちを指します。
既存の住環境を守るために町全体がアンチ開発になっているカリフォルニア州の自治体もあります。「ここでは開発せずに他のどこかで開発してくれ」という市や町です。
カリフォルニア州のさまざまな開発規制は、過去の住民たちが獲得してきた社会的な価値を反映しています。
それらは、環境保護、労働基準、地域社会の意見の反映、そして過去の開発の失敗、汚染、立ち退き、責任のない開発に対する防御策として築き上げられてきました。
その代表例が、1970年に制定されたカリフォルニア州環境品質法(CEQA : The California Environmental Quality Act)です。
この法令は、もともと野放図な開発、環境破壊、不当な立ち退き、あるいは権力の濫用などの悪影響を防ぎ、地域社会に公平に発言権を与えることを目的として制定されたもので、開発プロジェクトを実施する前に、広範な審査を義務付けており、その意思決定プロセスに一般市民も関与することができます。
しかし、皮肉なことに、CEQAは、当初想定されたような形では運用されてきませんでした。
環境目的だけでなく、既得権を守りたい人たち、裕福な住宅所有者、地方自治体、労働組合、開発業者のライバル企業、特定の価値観を持つ団体、その他様々な動機を持つ人たちによって、プロジェクトの遅延や阻止に頻繁に利用されています。
環境保護活動の実績がある団体が起こしたこの法律に関する訴訟はわずか15%未満で、ほとんどは環境への影響以外の理由で計画中のプロジェクトを阻止したい団体によって利用されています。カリフォルニア州議会分析局の報告書によると、州内10大都市において、CEQA(環境品質法)の控訴により、プロジェクトが平均2年半遅延しています。(1)
この例のように、コミュニティを保護することを目的とした法律が、結果として排他性を助長してしまうケースは少なくありません。閉塞的なシステムが構築された結果、社会が必要とするプロジェクトでさえ進めることが困難になりました。
2025年6月、アメリカで2番目に人口が多い都市であるロサンゼルスで建設中の大型集合住宅はわずか6件のみです。物価上昇や金利の高止まりによって事業の採算が見込めず、開発を手控えている影響が大きいですが、様々な人たちの動機によって開発が抑え込まれているのも事実です。(2)

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規制の複雑化がもたらす「動けない社会」
今私自身アメリカで開発許認可の手続きを進めていて、同じような感覚に陥っています。
また、私は以前東南アジアのある国で、大きなインフラプロジェクトに携わったことがあります。そのプロジェクトで雇われた行政側のスタッフが、「みんな、自分の仕事をするだけ。役割以外のことはしないし、自分の身を守るためにプロセスを厳守し、規定を逸脱することは絶対にしない。その結果、プロジェクトがどんなに遅れようがどんなにお金がかかろうが関係ない。むしろ長引いてもらった方が、長く給料がもらえるから都合がよいと多くの人間が思っている」と言ったのを思い出します。
いわゆる「お役所仕事」に加えて、複雑化する制度や、多様化する権利が、私たちを逆に動けなくするのです。時間とお金を必要以上にかけなければ、社会のためのことさえ実現できなくなっているのです。
企業においてもそうです。形だけのコンプライアンス、ESG、監査制度、社内規定、さまざまな外部と内部からのプロセスの厳格化が従業員の時間を無駄にするだけでなく、動けなくしていきます。本来やるべき仕事ではなく、そのプロセスに沿うこと自体が仕事だと勘違いする人たちも増えてきています。
私たちはそのような障壁をさらに積み上げるのではなく、不要なものを取り除いていく作業に着手しなければなりません。
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単純な物語への誘惑
本書は、このような規制を取り除き「豊富さ」を実現すること、つまり、必要なものをより多く、より速く、そして大規模に実現する能力を回復し、埋もれてしまっているアイデアや技術を利用して、生産、建設、イノベーションを推し進めるべきだと主張します。
その主張はとても明快で魅惑的に聞こえます。
しかし、私が懸念するのは、それが間違っているということではなく、解決しようとする問題の種類に対してあまりにも単純すぎるということです。規制をなくして、今まで滞っていたプロジェクトを全面的に進められるようにするだけですべてがうまくいくのでしょうか?
システムの一部を変えようとする試みは、必然的に他の部分にも影響を与えます。住宅不足、気候変動、都市開発、といった問題は、決まったことをすれば自動的に解決するような簡単な問題ではありません。他の多くの物事と相互に複雑に影響し合っているため、想像していなかったようなことが起きる可能性もあります。解決策が別の問題を引き起こし、問題自体が変化し続け、不確実さが常に存在します。
以前の投稿で、そのような問題を、複雑な問題(Complex Problem)や厄介な問題(Wicked Problem)として紹介しました。
本書は、これらの問題を、ボトルネックの解消、承認手続きの効率化、成果を増やすことだけに絞りますが、問題はそんなに単純ではありません。
著者らが主張する豊富さ(アバンダンス)へたどる道は、副作用や他の誰かへの代償を伴います。本書では、その複雑さには向き合うことなく、欠陥を取り除くことの必要性のみが繰り返し提起されます。
多くの人に手が届く住宅を提供することそのこと自体はもちろん良いことです。ただし、すべての規制を取り払って住宅開発を推し進めることは良いことなのでしょうか?開発リスクをまったく検証することなく進めてもよいのでしょうか?開発者がそのリスクを負うだけで問題は解決するのでしょうか?
インフラが整備されること自体は良いことです。しかし、必要な資金や環境影響は無視してもいいのでしょうか?エネルギーが安くなることはよいことです。しかし、その結果、財政が悪化したり、資源を使い切ってもよいのでしょうか?より多くのクリーンエネルギーを生み出すだけで、すべての環境問題は解決するのでしょうか?
ある側面での豊かさが別の側面での不足を生み出すとしたら、何が起こるのでしょうか?
「必要なもの」を増やそうとして制限を緩めれば、「必要でないもの」まで増やすこともあります。善意でさえ、意図せぬ害悪を生むことがあります。解決策は、それが変化を引き起こすシステムと共に進化しなければなりません。
ただ単に足りないものを増やすというのは、別の種類の楽観主義に過ぎないのです。「豊富さを目指す」ことはゴールであっても、治療法そのものではないのです。
私は、本書の方向性、つまり「過剰な規制が社会を停滞させている」という主張には賛成です。しかし、その処方箋である「規制緩和によるアバンダンスの追求」だけは不十分であり、同時に新たな問題を生む可能性があります。必要なのは、単なる規制緩和ではなく「速く動くことができ、責任ある」システムの再設計です。
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対応策:複雑な問題にどう向き合うか
では、どのような解決策があり得るでしょうか?
過度な規制によって物事が動かなくなってしまったのであれば、まずはボトルネックを突き止め、その手当をすることが必要です。しかし、そこには落とし穴もあります。その手当として新たな規制や手続きを導入すれば、それ自体が新たな複雑さを生み出してしまうのです。
つまり、「規制が問題だ」と言いながら、その解決策として別の規制を提案するという矛盾から完全には逃れられないのです。これこそが、複雑な問題の本質です。完璧な解決策は存在せず、すべての選択にはトレードオフが伴います。それでも、何もしなければ事態は悪化するだけです。
以下、完璧ではありませんが、現状を改善する可能性のあるアプローチをいくつか提示します。これらは単独で機能するものではなく、互いに補完し合い、状況に応じて調整されるべきものです。そして何より、これらを導入すること自体が新たな問題を生む可能性があることを認識しておく必要があります。メリットとデメリットを合わせて紹介しましょう。
1.責任の所在を明確にする仕組み
「すべての民意を反映する」は聞こえはよいですが、実際は、すべての人たちの意見を反映していては何も決まらないのは私たちの身近な事例から誰もが容易に理解できます。
問題は、「誰もが反対できるが、誰も反対の責任を負わないこと」です。
反対意見に代替案の提示を求めることや、コストと遅延を見える化して反対によって生じる費用や社会的損失を明示することが考えられます。
ただし、これも新たな手続きを追加することになり、「代替案とは何か」「誰が評価するのか」といった新たな論点を生みます。また、経済的余裕のない人たちが意見を述べにくくなるリスクもあります。
2.参加の範囲と期限の設定
少数意見を組み入れることは大切です。しかし、ごく数名の人たちのために、何百、何千もの人たちの生活改善が実現できないのであれば、バランスを考え直す必要があるでしょう。
公共益を考えた場合、「影響の大きさ」に応じた参加レベルの設定や、協議期間の明確化が有効かもしれません。ただし、「影響の大きさ」をどう測定するのか、誰が判断するのかという問題が残ります。また、期限を設けることで、十分な議論ができないまま進んでしまうリスクもあります。
3.規制の定期的な見直しの仕組み
一度法令化するとそれを覆すことが容易ではなく、例え善意で制定されたものであっても、悪法となって永遠に残ってしまうことがあります。
5年ごとの見直しを法律で義務付け、規制の費用対効果、当初目的の達成度、社会状況の変化などを評価し、改廃の判断材料とすることが考えられます。
しかし、そのデメリットとして、見直し作業自体が行政の負担となり、形骸化するリスクがあります。また、頻繁な制度変更は、事業者にとっての予測可能性を損ないます。
4.手段ではなく成果を重視する
現在の多くの規制は、正しい手続きを踏んだかどうかに焦点が当てられており、実際に望ましい成果が得られたかどうかの議論は二の次になっています。
「何をするか」ではなく「何を達成するか」に焦点を当て、目的達成の手段は柔軟に選択できるようにします。成果を測定し、公表し、達成できなかった場合の説明責任を求める文化を根付かせます。
ただし、「成果」の定義自体が論争の的になり得ますし、短期的な成果を追求することで長期的な価値が損なわれる可能性もあります。
成果を明確にしても機能しない場合もあります。例えば、日本政府は、2030年度までに、2013年度比で46%の温室効果ガス排出量削減を表明しています。すでにこの達成は難しいとささやかれていますが、達成されなくても誰も責任を取らないのでしょう。
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これらの提案は、あくまでも議論の出発点であり、完成された解決策ではありません。実際には、それぞれの社会、それぞれのプロジェクトの文脈に応じて、さまざまな視点から物事を観察し、設計し、試行し、評価し、修正していく必要があります。
重要なのは、「これをすれば解決する」という単純な処方箋を求めるのではなく、問題の複雑さを認識しながらも、具体的な改善に向けて一歩ずつ進むことです。完璧主義を求めて動けなくなるよりも、不完全でも少しでも進みながら試行錯誤する方が、長期的には良い結果をもたらすでしょう。
実は、アメリカでは、開発申請から承認までのプロセスを簡略化し、開発をスピードアップする取り組みは、特に大都市圏での低中所得者向け住宅(アフォーダブルハウジング)などの開発案件を対象にしてすでに始まっています。
また、前述のカリフォルニア環境品質法(CEQA)については、2025年6月、大規模な法改革が成立しました。具体的には、都市内の住宅(インフィル開発)をCEQAの対象外にする、訴訟手続きの要件を厳格化する、除外対象を拡大するなどです。法制定から55年もの時を経て、その骨組みにメスが入れられる歴史的な改革が実現したのです。なお、カリフォルニア州知事ギャビン・ニューサムは、この法案に署名した際、この本に言及しています。
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さいごに:米国と日本、異なる病理と共通の課題
重要な注記として、今回紹介したことは、そのままでは日本には当てはまりません。
住宅問題について言えば、アメリカと日本で決定的に異なるのは人口増加率です。アメリカはコロナの時期に増加率が減少したものの、毎年1%弱の割合で人口が増加しています。反対に、日本は0.5%の割合で人口が減少しています。日本は全国的に見れば住宅需要は減る一方で、アメリカでは何もしなくても、毎年100万世帯以上の住宅需要の底上げがあるのです。
今回紹介した『アバンダンス』の筆者らは、日本や中国のように、比較的開発が自由で、規制が緩い国の事例を挙げて比較しますが、中国は言うまでもなく、日本のシステムがよいとも言いきれません。
日本では、保護地域の真横の土地を開発することや山を削り取ることも米国よりはるかに簡単です。ある意味、筆者らが望む開発優先の仕組みが日本にはあります。しかし、それが必ずしも望ましい結果を生むわけではありません。
米国が「過剰な手続きと拒否権の乱立」によって物事が動かなくなっているのに対し、日本は「曖昧な責任体制と事後対応の不備」によって、開発は進むものの、その結果生じる問題への対処が不十分になりがちです。
例えば、日本の都市計画では、用途地域の指定は比較的緩やかで、住宅地の近隣に工場やマンションが建設されることも珍しくありません。
2021年に静岡県熱海市で発生した土石流災害では、不適切な盛土工事が原因の1つとされましたが、この盛土は長年にわたって放置されており、規制や監視の不備が指摘されました。
また、近年各地で問題となっているメガソーラー建設も同様です。再生可能エネルギーの推進という名目で、森林を大規模に伐採し、急斜面に太陽光パネルを設置するプロジェクトが各地で進められてきました。住民どころか、行政さえも、コントロールを効かせられない案件もあります。その結果、土砂災害リスクの増大、景観破壊、生態系への影響などが問題視されるようになりました。
日本では米国に比べて環境アセスメントの仕組みが弱く、開発による被害を受けた住民が声を上げる手段が限られています。その結果、開発は進むが、その不備を一部の住民が不当に負担させられる構造になっているとも言えます。
米国の問題は「民主主義の過剰」であり、日本の問題は「開発責任の不足」かもしれません。米国では誰もが反対できるために何も進まず、日本では反対しても聞き入れらえず、問題ある開発も進んでいき、被害を受けた住民が泣き寝入りすることさえあります。
本書が提起する「アバンダンス」の実現には、米国型の過剰な規制を緩和するだけでなく、日本型の無責任な開発を避けるための仕組みも必要です。つまり、「速く動けるが、責任を伴う」システムの構築が求められているのです。
これは容易なことではありません。複雑な問題に完璧な解決策はありませんが、何もしなければ事態は悪化するだけです。
重要なのは、単純な物語に飛びつくのではなく、問題の複雑さを認識しながらも、具体的な一歩を踏み出すことです。規制を全廃するのでもなく、現状を維持するのでもなく、試行錯誤しながら、良い方向に歩み続けることです。
私たち一人ひとりにできることは限られているかもしれません。しかし、問題について考え続け、議論し、自分の立場で何ができるかを問い続けることは、誰にでもできます。住民として、有権者として、社会の一員として、それぞれの立場で、「動ける社会」と「責任ある開発」の両立を目指す。その小さな積み重ねが、世の中をより良い方向に向かわせるのでしょう。
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参考文献
(1) “California Environmental Quality Act“, Wikipedia, retrieved 2026/6/31.
(2) Brannon Boswell, Rachel Scheier, “Why California is falling behind on housing requirements“, CoStar News, 2025/6/9.