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ザ・ノース・フェイス創業者ダグラス・トンプキンスの、環境保護に目覚め、すべてを投じた人生

  • 投稿カテゴリー:社会が変わる
  • 投稿の最終変更日:2025年10月18日
  • 読むのにかかる時間:8 mins read

アウトドアブランド「ザ・ノース・フェイス」の創業者ダグラス・トンプキンスはある時気が付きます。自分はビジネスを拡大することで、自然を破壊してきたと。彼は、別の何かをし始めなければならないと気づき、南米で自然保護のための土地取得に私財を投じていきます。

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はじめに

今回の記事は、前回紹介したアウトドアブランドのパタゴニアの創業者イヴォン・シュイナードの冒険仲間かつ親友であり、同じく人気アウトドアブランドのザ・ノース・フェイス(The North Face)創業者であるダグラス・トンプキンス(Douglas Tompkins, 1943 – 2015)の紹介です。

チリに移住したアメリカ人ジャーナリストであるジョナサン・フランクリン(Jonathan Franklin)が彼について書いた書籍『A Wild Idea: The True Story of Douglas Tompkins – The Greatest Conservationist (You’ve Never Heard Of)(邦題)ザ・ノース・フェイスの創業者はなぜ会社を売ってパタゴニアに100万エーカーの荒野を買ったのか? ダグ・トンプキンスの冒険人生』からの引用を中心に進めていきます。

著者自身が本の冒頭で書いているように、この本は、トンプキンスの死後に、残されたインタビューや記事や手紙やメールなどを集めて書かれたため、本人からのダイレクトなインプットが限られているのが残念ではありますが、それでもなお、本としてまとめられたことで、トンプキンスが南米大陸のさらに南端でおこなった偉業が多くの人に知られることになるという点で、とても意義のある本です。

なお、いつものように私は英語でこの本を読んでいるため、日本語版との表現などの違いについてはご了承お願いします。

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ザ・ノース・フェイス The North Face

1964年、ダグラス・トンプキンスは、サンフランシスコのノースビーチに小さなアウトドア用品店「シュイナード・イクイップメント・ウェスト」をオープンします。当初は登山仲間であるイヴォン・シュイナードが作るロッククライミング用品やキャンプ用品などを売っていましたが、1966年、自身のブランドとして正式にザ・ノース・フェイスを設立します。

ストリップ小屋やバーに囲まれたサンフランシスコの店は、様々な文化交流の場となります。

ハードコアなクライマーやアウトドア派の聖地だけでなく、当時のカウンターカルチャー、つまりヒッピー、ビート・ジェネレーションのアーティスト、その他の反主流派の人たちが訪れるような場所になります。店舗のグランドオープンの際には、グレイトフル・デッドが演奏し、ジャニス・ジョプリンが店を訪れたこともあります。
当初はトンプキンスの妻のスージーが仲間と立ち上げたファッションハウス「Plane Jane」のビキニなども扱っていたため、多様な商品と様々な人たちが行き交う場所になりました。

1960年代のサンフランシスコは、カウンターカルチャーの温床でした。
ビート・ジェネレーションは、1950年代に店があったノースビーチ地区を有名にしました。1960年代半ばには、ヘイト・アシュベリーを中心にヒッピー運動が本格化しました。
若者たちは物質主義を拒絶し、自然、芸術、反戦、自己表現、そして実験的な精神を受け入れていました。この文化が、自由かつシンプルで、自然との繋がりを重んじる当時のアウトドアコミュニティの精神と重なっていたのです。

カウンターカルチャーと、人気が拡大するアウトドアコミュニティに支えられて、ビジネスは成長します。

しかし、ザ・ノース・フェイスの設立からわずか2年後の1968年、トンプキンスは、会社をわずか5万ドルで売却してしまいます。事業が成長するにつれて、店が忙しくなり、仕事に忙殺されるようになったのを嫌ったからです。彼にとっては年に数か月、自然の中での冒険の時間を確保することが、仕事や他の何よりも大切でした。

トンプキンスは、会社の売却で得たお金を、冒険映画製作のための費用と、妻のスージーのブランドを拡大するために共同設立したエスプリ(Esprit)への資金にあてました。

次のYoutubeがその際に製作された冒険映画『Mountain of Storms』です。
1968年、イヴォン・シュイナードらの冒険仲間とカリフォルニアを車で出発して、サーフィンを楽しみながら南米チリを目指し、最終的にはパタゴニアのセロ・フィッツロイの山腹で悪天候のため、31日間を雪洞で過ごしたのち、登頂に成功する冒険の物語が記録されています。

 

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エスプリ Esprit

トンプキンスの事業家としての経歴で面白いのは、彼が冒険家であり、ザ・ノース・フェイスの創業者であるだけでなく、人気を博したファッションブランド、エスプリ(Esprit)の共同創業者でもあることです。

ザ・ノース・フェイスの今日に至るまでの成功は、日本にもたくさんのショップがあることから、皆さんも何となくお分かりになるかと思いますが、現在は低迷してしまったエスプリも、以前は世界を席巻するブランドでした。
ただし、当時のカラフルで都会的なデサインを特徴とする商品は、明らかにザ・ノース・フェイスが扱っているものとは異なります。

「エスプリ」は、トンプキンスの最初の妻であるスージー・トンプキンス・ビューエル(Susie Tompkins Buell)が1968年に友人と立ち上げた「Plain June」のブランド名を、ダグラスの提案によって変更したものです。

ダグラス・トンプキンスは、アウトドアに興味があっただけでなく、デザインにも強い関心を持っており、また、細部への異常なまでに徹底したこだわりと、卓越したビジネスセンスを併せ持っていました。彼はエスプリのブランドイメージを見事に作り上げました。

1980年代の絶頂期のエスプリは、大胆でエネルギッシュな色使いとグラフィックが特徴で、都会的でありながら遊び心に溢れ、時代の精神、特にポストヒッピー、プレデジタルの若者文化と実験精神に深く結びついていました。パタゴニアと同様にプロのモデルを使わず、一般の人たちを広告のモデルとして採用し、単なる衣服の販売にとどまらず、ユニセックス、創造性、多様性、平等、そしてグローバルな視点を体現するライフスタイルを提供し、若者たちから支持されました。

自由であり、冒険的なライフスタイルを提供するという点では、ザ・ノース・フェイスもエスプリも共通していたのかもしれません。

エスプリの成長は著しく、1987年頃までに、世界でおよそ60カ国に展開し、年間売上は推定8億ドル近くに達しました。

しかし、このころになると、ダグラス・トンプキンスは、自分がしていることは間違っているのではないかと考え始めるようになります。彼は、アパレル業界で、人に必要とされているわけではない衣服を大量に作り続けてきました。その仕事は、彼が愛する自然を悪化させるものでした。別の何かを始めなければければならないと徐々に思うようになります。

ダグラス・トンプキンスは、共同創業者であり妻であるスージーと、意見の違いから言い争いになることが多くなり、1989年に離婚します。そして何よりも、「人が必ずしも必要としない衣服を売っている」という反消費主義や環境意識の高まりにより、エスプリの所有株を約3億ドルで手放します。

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環境保護に目覚める

トンプキンスとパタゴニアの創業者シュイナードは、どちらも冒険好きで1年に数か月のアドベンチャーを仕事よりも優先する点では一致していましたが、質素な生活を送るシュイナードとは異なり、エスプリの事業が成功していたころのトンプキンスは派手好きで、サンフランシスコの豪邸に住み、フェラーリを乗り回し、パーティー好きのプレイボーイでした。

しかし、最終的にトンプキンスは世界的な自然保護活動家となります。大きなきっかけは、1898年、環境保護団体「Deep Ecology」と出会ったことであり、また、資金提供者を求めて彼の元にやってきた環境活動家のリック・クラインに連れられてチリに行き、環境破壊の深刻さをまざまざと見せつけられたことです。

しかし、チリで知ったのは、環境破壊の深刻さだけでなく、ほとんどの手つかずの広大な自然が格安で取得できることでした。トンプキンスは、エスプリを売却して得た資産で土地を買い、チリに移り住み、無計画な伐採や開発から自然を保護することに取り組み始めます。彼の派手だった生活も180度異なるものになりました。

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環境保護活動に対するさまざまな抵抗

トンプキンスが、自然保護のためにチリとアルゼンチンで広大な土地を買い入れていくことに対して、アルゼンチンは比較的協力的でしたが、チリでは、さまざまな抵抗や脅迫を受けました。

例えば、外国人がチリの広大な土地を購入することで、国家主権を脅かされるとか、独立国家を樹立するつもりなどという陰謀論が浮上しました。

トンプキンスが最初に購入したプマリン(Pumalín)は特に物議を醸しました。アルゼンチン国境から太平洋まで広がっていて、縦長のチリの国土の最も狭い地域を東西に横切るため、国家安全上の脅威とみなされ、一部の軍将校から、チリを南北に二分して分断させるつもりだと非難されました。

その他、土地の資源を輸出のために使うつもりだとか、水供給を支配して利益を独占しようとしていると批判され、さらには、軍事目的や核廃棄物保管への利用、CIAのスパイだという噂さえ上がりました。

一部の議員や政治家は、彼を公然と批判しました。私有地であっても、政府が介入し最終決定権を持つべきだと訴えられ、委員会による調査も行われました。

彼は、建設予定だった水力発電用のダムにも反対するなど、一部の国家政策にも反対したため、政治的な抵抗も受けました。政治家や政党から不信感を受けるのみでなく、開発や経済を優先する当時の大統領からも直接圧力を受けました。

彼が買った土地の一部は軍の管理下にあった土地と隣接していたため、軍から脅迫や嫌がらせを受けたこともあります。
トンプキンスが購入した土地の上空を何度も軍の飛行機やヘリコプターが低空飛行し、騒音に悩まされるとともに、上空から行動を監視されました。携帯電話は盗聴され、トンプキンス自身、殺人予告を受けたことさえあります。

一部の地元住民は、土地が保護されることで、伐採など仕事が失われ、生活が脅かされると抵抗しました。また、経済面だけでなく、文化面でも、自分たちの生活様式が損なわれることを懸念しました。地元住民のアクセスが制限され、観光客や富裕層が優遇されるのではないかと懸念する人もいました。

そもそも、この地域には民間慈善活動や環境保護といった活動がほとんど存在しなかったため、環境保護という概念さえ受け入れられず、さらに環境を保護するためだけにお金をかけるという活動自体まったく理解されず、不信感を抱かれました。

一部の牧場主は、ピューマなどの野生動物が保護されることで、羊などの家畜への被害が増えることに憤慨しました。パタゴニアで広大な牧場を購入したときは、近隣の多くの牧場主が抗議活動を行い、フェンスの撤去を求めました。

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東京都の4倍の面積の土地を取得し保護

2015年、ダグラス・トンプキンスは、パタゴニアでのカヤックの最中に天候の急変を受けて転覆し、助け出されたものの低体温症で亡くなりました。72歳でした。

彼が亡くなるまでに、慈善団体を通じて取得した自然保護区は約220万エーカーになり、これは東京都の面積の4倍以上になります。

その一部であるチリ南部のプマリンは2018年に国定公園に指定されました。99万エーカーの面積のうち、75万エーカーはトンプキンスが購入して国に寄贈したもので、彼の名を取って、プマリン・ダグラス・トンプキンス国立公園と命名されました。
パタゴニア国定公園は、75万エーカーの面積のうち、21万エーカーがトンプキンスの寄贈によるもので、同じく2018年に国立公園化されました。
アルゼンチンのイベラ公園に至っては、イベラ国定公園を含む全体の面積は約 175万エーカーに及び、そのうち約37万エーカーがトンプキンスから寄贈された土地です。

 

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さいごに

ダグラス・トンプキンスの死後、その取り組みは、アウトドアブランドのパタゴニアのCEOを18年間務めた後、ダグラスの2人目の妻となって、共にパタゴニアに住み、活動を一緒におこなってきたクリス・トンプキンス(Kris Tompkins)に引き継がれています。
また、トンプキンスが立ち上げた3つの自然保護団体を2019年に1つにまとめた「トンプキンス・コンサベーション(Tompkins Conservation)」によって引き継がれています。
そして、その意志と精神は、両国の政府や、その他の数多くの団体や人たちによって引き継がれています。

下のYoutubeは、クリス・トンプキンスが2024年にカナダで開かれたTEDのイベントの際に話したものです。彼女は環境保護活動家の草分け的存在であるエドワード・アビー(Edward Abbey, 1927 – 1989)の言葉を引用して、「行動を伴わない感傷は魂の破滅だ(Sentiment without action is the ruin of the soul)」と述べ、夫の遺志を引き継ぎ、行動し続けています。

トンプキンス・コンサベーションは、チリとアルゼンチンで合計17の国立公園の設立や拡張に関わり、合計32の「リワイルディング(rewilding)」プロジェクトに携わっています。
リワイルディングとは、人間が劣化させてしまった自然生態系を、人間の介入を減らしつつ、本来の生態系の機能と多様性を回復させる自然再生のアプローチです。団体のホームページでは、それらのいくつかの公園の素晴らしい写真集を無料でダウンロードすることができます。
関心がありましたら、こちらのリンクから、その素晴らしく広大な自然を知ってみて下さい。

もしあなたの人生の仕事がたった一度の人生で達成できるのならば、十分に大きな仕事を考えているとは言えない。
     ~     ウェス・ジャクソン、ランド・インスティテュート創設者
If your life’s work can be accomplished in one lifetime you’re not thinking big enough.
     ~     WES JACKSON, founder, The Land Institute

 

 

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