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私たちはなぜいつも自分が正しいと考えるのか?

  • 投稿カテゴリー:社会が変わる
  • 投稿の最終変更日:2024年5月26日
  • Reading time:7 mins read

私たちは、他人より自分が正しいと考えます。自己正当化は、最も危険な思考傾向です。罪悪感をもったり自己意識を弱めることなく残虐な行為さえ容認できてしまうからです。私たちはこの思考傾向から抜け出すだけでなく、そもそも、正しいか、正しくないかという基準で考えることからも抜け出さなければならないかもしれません。

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はじめに

私たちは、自分の正当性を証明したり、自己意識を守るために、家庭で、学校で、職場で、社交の場で、ありとあらゆる場で、自分の意見が正しいことを他の人たちに説得したり、証明しようとします。
もし自分が間違っていると証明されると、劣等感や敗北感、屈辱感を感じるだけでなく、場合によっては、自分が持つ世界観が根底から覆されたと感じてしまうこともあります。

問題は、私たちの多くが「ある時は自分が正しく、ある時は他人が正しい」と考えるのではなく、「常に自分が正しい」とか「ほとんどの場合自分が正しい」と考えていることです。
そして、世の中のほとんどの人がそのように思っているため、人と人との間で、意見の相違や、対立や、憤りや、怒りや争いが生まれ、それが収束することがありません。

今回は、私たちはなぜ常に自分が正しいと思うのかを考えていきます。

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自分が常に正しいという欲求は一種の暴力

ドイツ生まれのスピリチュアル・リーダーで、作家でもあるエックハルト・トール(Eckhart Tolle)は、「正しくなければならないという欲求は一種の暴力である」と表現しています。(1)
実際に私たちは、ごく身近なところから世界の紛争地域に至るまで、様々な場所で、その欲求が大なり小なり暴力として体現されている現状を見ています。

「自分が常に正しい」という考えが軽微であれば「融通が利かない人だなぁ」と思われる程度ですむかもしれませんが、それが頂点に達すると、人への「支配」や「強要」として現れます。
他人との関係に満足できなかったり、自分自身をより良く見せたり、自己の正当性を認めてもらうために、相手が自分の意見を受け入れるまで、決してあきらめることができず、繰り返し繰り返し攻撃し続けることもあるのです。

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理性の論証理論:Argumentative Theory of Reasoning (2)(3)(4)

自分の感情や欲求に打ち勝つためには理性を強く持たなければならないとよく言われます。

しかし、逆に、この理性が感情や欲求を強化してしまうこともあります。

面白い論文があります。
フランス国立科学研究センターのヒューゴ・メルシエ(Hugo Mercier)とフランスの影響力のある社会認知学者であるダン・スペルベル(Dan Sperber)が書いた「Why do humans reason? Arguments for an argumentative theory(邦訳)人間はなぜ理性を持つのか? 論証理論の論証」です。(2)
その中でメルシエらは、私たちが持つ推論の機能、つまり論理的に考えたり話すことの能力についての認識を改めるべきだと述べています。

一般的に、論理的思考や推論(reasoning)は、知識を向上させ、より良い決断を下すために役立つと考えられています。しかし、メルシエらは、推論はしばしば知識の歪曲や不適切な決定をもたらすと指摘します。

なぜなら、実は多くの場合、理性が「真理を追求し、知識を高め、より良い決断を下すため」ではなく、「他人との議論に勝つこと」や「自分の信念や行動を正当化すること」を目的に利用されるからです。そのため、必ずしも理性が合理的な結論を導かないだけでなく、むしろ合理的な結論を妨げることさえあるのです。

熟練し成功した論者ほど、真実を追い求めるのではなく、自分の意見を支持する論証を追い求めます。「自分が正しい」ことを相手に説得するために、そのように意図された議論の場と議論の流れを巧みに作り上げます。

その裏には悪名高き確証バイアス(Confirmation bias)が存在します。確証バイアスは、本サイトで何度も紹介していますが、自分の信念や価値観に沿う情報や、それを強化する情報ばかり集めようとする私たちの思考傾向、考え方の癖を示します。

自分の意見を擁護するように動機づけられた推論は、自分と他人の評価や態度を歪め、誤った信念を持続させます。相手の主張に対しては、有益な点を探したり客観的に評価することなく、むしろ最初から反駁すべきものと考えて常に厳しい評価をします。一方で、自分の主張に対しては評価が甘くなります。

意見の対立が大きければ大きいほど、そして意見が自己意識と密接に結びついていればいるほど、生産的な対話をするよりも、議論で勝ち負けを決める志向性を持ちます。議論の本当の目的は、建設的に意見を出し合って、お互いにとってより良い選択を見出すことであるにもかかわらずです。

私たちの社会や組織の意思決定のレベルの低さ、いつまでたってもパフォーマンスが上がらない根本原因の1つは、このように、理性を正しく使っていないことにあるのです。

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理性の2つの目的

今述べたように、私たちが理性を用いて、理論的に何かを生み出そうとする背景には、次の2つの目的があります。

① 1つ目の目的は、合理的な結論を見出すことです。
② 2つ目の目的は、自分の正しさを証明することです。

この2つ目の目的のために理性が使われると、客観的に良い結果が得られないだけでなく、特にその人が大きな権限や力を持つほど、他人を圧倒し、人を服従させて、破壊的な結果をもたらすことができるのです。

人間には様々なバイアスがあり、バイアスに打ち勝つには、クリティカルシンキングなど論理的な思考を身に付ける必要があります。しかし、論理的な思考方法を身に付けて実際に使う際にも、一歩間違えると、バイアスを強化してしまう罠があることに気を付けなければなりません。

特に確証バイアスは、数あるバイアスの中でも最も強力で危険なバイアスのひとつです。自分を簡単に正当化する道具になるからです。

以前本サイトで書いた記事「Moral Disengagement:私たちが平然と道徳から逸脱できる仕組み」の中で、著名な心理学者であるアルバート・バンデューラ(Albert Bandura)の「私たちが道徳から逸脱する8つのメカニズム」を紹介しました。そして、その中で「正当化」が最も強力で危険なメカニズムだと書きました。

なぜなら、自分が正しいと強く信じる目的を達成するためであれば、自己正当化の仕組みによって、自己意識を薄めたり、すり替えることなく、例え有害な行為であっても容易に容認できてしまうからです。むしろ、ミッション達成のためであれば、有害な行為を容認するだけでなく、時には有害な行動であろうとも実施することこそが正しいと信じ、自己意識を強める効果さえあります。

認知バイアスは、長い人類の歴史の中で、私たちの先祖が生き延びるために形成された脳の仕組みで、今の時代でも、私たちの心身がうまく機能するように助けてくれたり、危険を回避してくれたり、有効に機能する場面は数多くあります。しかし、確証バイアスについて言えば、有益さよりも有害さのインパクトが大きいです。

私たちはこのバイアスを排除するために、自らと戦わなければなりません。

理性自体に問題があるのではありません。その悪用や誤用に問題があるのです。そして、悪用や誤用の仕方さえも、私たちの頭の中にすでにデフォルトとして組み込まれてしまっているのです。

冒頭紹介したエックハルト・トールは「思考こそが、人間の機能不全の根底をなす」と言います。トールは、私たちの思考が、世界との関わり方を形作り、2つの機能不全を引き起こすと説明しています。1つは誠実でない人間関係で、もう1つは両極化と暴力です。(5)

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正しい、正しくないは不変ではなく、文脈によって変化する

私たちはつい、どちらかが正しくてどちらかが間違えているかという前提で議論をしてしまいます。しかし、それぞれが置かれた環境や文化や文脈によって、答えの正否は異なります。

ある国で正しいことが、他の国では正しくないことも数多くあります。
例えば、アメリカでは子供が父親をファーストネームで呼ぶことはおかしいことではありませんが、日本で父親を名前で呼び捨てすることは一般的でなく、多くの人は抵抗感や違和感を持つでしょう。
アメリカでは靴をはいたまま家の中に入るのはふつうですが、日本で土足で人の家に上がったら、カンカンに怒られてしまうかもしれません。

私たちは、相手の置かれた立場を無視して、自分が置かれた立場で考えて、正しい、正しくないの判断をしてしまいます。マリー・アントワネットが言ったとされる「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」という有名なフレーズがありますが、彼女のみならず、私たち誰もが、自分が経験している世界が他人にも広く当てはまると勘違いする傾向があるのです。

さらには、例え、環境や文化が同じでも、物事の背景や文脈が変化すると、正しかったことが正しくなくなるケースも数多くあります。

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正しいか、正しくないかという議論自体が正しくない

また、どちらか一方だけが正しいということもなく、両方とも正しい場合もあれば、両方とも正しくない場合もあります。二極化された議論の多くでは、どちらか一方だけが常に正しいということはなく、答えはその中間のどこかにあったり、議論されている論点とはまったく異なる、2人とも想像すらしていない場所にあることもあります。

私たちが一般的に正しい、正しくないの議論をするのは、意見や考え方に対してです。事実に対しては通常そのような議論をすることはありません。
しかし、世の中で事実と思われていることですら疑う必要があるかもしれません。かつては誰もが事実と信じていた数多くの事象が科学的に塗り替えられる歴史が繰り返されてきました。今誰もが正しいと思っていることさえも、科学の進歩などによって、将来、実は全然違っていたと覆る可能性もあるのです。

そもそも、正しいか、正しくないかという判断軸で語ること自体が間違っていることもあります。
不確実で変化のスピードが速い時代にあって、とにかく何か実行に移して先に進まないことには、正しいのか正しくないのか判断できないケースも多くなりました。
私たちは、幼いときから、多くのことに対して、正しいか、正しくないかという基準で、物事を考えさせられてきました。そして何年にもわたって、それを繰り返しテストされてきました。その基準で考えることが適切でない物事に対してもです。そのため、何に対してもつい「正しいか、正しくないか」と考えてしまうのですが、このことから見直していかないとならないのかもしれません。

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さいごに

今回のタイトルは「私たちはなぜいつも自分が正しいと思うのか?」でした。

そして、その答えは「私たち人間がそのようにできているから」であり、「それを維持、強化するようにできているから」です。

感情に支配されないために、理性を鍛えなければならないと、古くから、数多くの哲学者や心理学者が主張してきました。しかし、私たちは「理性を鍛える」の意味と目的をよく理解しなければなりません。

私たちは、多種多様な人たちが、多種多様な考えや経験をしている世界に生きています。誰もが自分の真実を持ち、多くの人がある点では正しい世界です。
しかし、その世界においても、誰かがどんな点においても常に正しいということはありません。言われてみれば当たり前なのですが、多くの人がここから抜け出せないのです。

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参考文献
(1) Eckhart Tolle, “The Power of Now: A Guide to Spiritual Enlightenment”, New World Library, 2004.
(2) Hugo Mercier, Dan Sperber, “Why do humans reason? Arguments for an argumentative theory“, Behavioral and Sciences, 34(2), 57-74, 2011.
(3) Jonathan Haidt, “A New Science of Morality, Part 1“, Edge, 2010/9/17.
(4) Hugo Mercier, “The Argumentative Theory“, Edge, 2011/4/27.
(5) Eckhart Tolle, “A New Earth: Awakening to Your Life’s Purpose”, Dutton, 2005.

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