「アート」と聞くと、何か敷居が高く感じられるかもしれません。しかし、いわゆる「芸術」より広い意味を持ち、私たちの健康や幸せに深く結び付くことが分かってきています。それはとても身近なものである一方で、私たち社会が失ってきたものでもあります。
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はじめに
皆さんは、「芸術」や「アート」という言葉にどのようなイメージを持ちますか?
ある人たちにとっては、敷居の高いものであり、難解なもの、手の届かないもの、ある種の贅沢かもしれません。
しかし、最近の脳科学やテクノロジーの発達によって、アートは、いわゆる「芸術」以上のもっと広い意味を持ち、かつ身近なもので、私たちの健康や幸福度に深く結び付くことが分かってきています。
今回は、スーザン・マグサメン(Susan Magsamen)とアイビー・ロス(Ivy Ross)の2人が2023年に書いた書籍『Your Brain on Art: How the Arts Transform Us(邦題)アート脳』を紹介します。
スーザン・マグサメンは、ジョンズ・ホプキンス大学医学部ペダーセン脳科学研究所の先駆的な取り組みである応用神経美学センター、International Arts + Mind Labの創設者でありエグゼクティブディレクターです。アートと脳科学が交差する領域である「神経美学(Neuroesthetics)」の研究にキャリアを費やしてきました。
もう1人の著者であるアイビー・ロスは、Googleのハードウェアデザイン担当の副社長です。彼女のチームは、2017年に発売されたGoogleハードウェア製品のデザイン言語を考案し、240ものデザイン賞を受賞しました。Business Insiderは彼女をGoogleで最も影響力のある15人の女性に選出し、2019年にはFast Companyが「ビジネス界で最もクリエイティブな100人」の第9位に選んでいます。
この本にあるのは、「芸術を取り戻せ」というメッセージではありません。アートと最新の科学的知見を融合させ、アートを私たちの生活にもっと役立てていきましょうと呼びかけるものです。
下のYoutubeでも、2人の主張や本書の概要を聞くことができます。なお、私はいつもの通り本書の英語版を読んでおり、日本語版は読んでおりません。日本語版との表現の違いなどについてはご了承ください。
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神経美学、ニューロアーツとは?
神経美学(ニューロアーツ)の科学者たちは、脳画像やバイオマーカー測定といった先進技術を含む様々なツールを使って脳の中を覗き込み、アートとの関わりが神経回路をどのように再配線し、脳の可塑性(かそせい:経験に基づいて脳が自らを再配線し、適応、成長する能力)によって新たな経路を作り出すのかを解明しようとしています。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった感覚が脳に入ると、複雑な連鎖反応が起き、私たちの感じ方、考え方、行動を形作る数十億もの変化が引き起こされます。神経美学は、アートや美的体験が身体や脳や行動をどのように変化させるのか、そして健康と幸福にどのように貢献するのかを研究する学問です。
以下は、神経美学の研究から得られた知見の一部です。
・創作活動に45分間携わることで、ストレスホルモンであるコルチゾールが大幅に減る
・美術館に行くことは、孤独感を軽減し、認知力を高める
・月に1度以上のアートや文化的体験は、人生の満足度を高め、寿命を10年延ばす可能性もある
・音響専門家は、振動や周波数を用いて、創造性と認知力を高めている
・香りは感情の75%に影響を与える
・CとGのチューニングフォーク(音叉:おんさ)は、ストレス反応を和らげリラックス効果を高める音波を生み出す
・歌を歌ったり鼻歌を口ずさむことは、副交感神経系(リラックスの神経)を刺激して気分を良くする
・インタラクティブな展示は、芸術と鑑賞者の境界を取り除き、脳の可塑性を高める
・音楽を演奏すると、シナプス(神経細胞同士の接合部)と灰白質(神経細胞のある領域)が増加し、認知力が向上する
・アートは、子どもや青少年の感情的な回復力を高める
・舞台芸術は、相手の立場に立って考え、相手の感情や意図を理解する能力を高める
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アートとは?
繰り返しになりますが、この本で取り扱う「アート」は、いわゆる「芸術的な活動」よりもっと広範囲で、私たちの健康や幸せに役立つ創造的なもの、思考、感情、感覚のすべてを含めています。これらは、私たちの日常で常に起きています。
私たちの社会は「芸術」を洗練させ過ぎました。技術的に高度なものにし、芸術を生み出す人たちをも希少で特別な能力を持つ人たちにしてしまいました。その結果、芸術を体験することが一般人には敷居が高いものになってしまったのです。
しかし、本来「アート」とは決してそのような「芸術作品」だけではありません。
ノートに落書きをしたり、メロディーを口ずさんだり、庭を手入れしたり、編み物をしたり、家の模様替えをしたり、料理を工夫することもアートです。誰もがそのような「創作活動」に没頭した経験があるでしょう。
また、「アート」から恩恵を受けるために、決して上手である必要はありません。高い鑑識眼を持つ必要もありません。技術的な上手い、下手に関係なく、アートに触れることで誰もが恩恵を得ることができます。
小さい子どもの親御さんたちは、子どもに絵を描かせたり、音楽教室に通わせたりします。しかし、ある時点でこの子には才能がないと判断し、「あなたには向いてなかったわね」と早々にやめさせてしまいます。芸術系の高校、大学も同じで、周囲のごく一部の生徒たちのあまりのレベルの高さに圧倒されて「こりゃ自分は無理だわ」とあきらめてしまいます。
芸術活動をやめることで、アートから受ける恩恵、つまり、その後の長い人生で、人として成長すること、健康や幸福度の増進から自らを遮断してしまうのです。
アートは本来「将来性がない」という理由でやめる必要はありません。
芸術家にならなくてもアートを楽しみ、その恩恵を受け続けることができます。むしろ、アートなしでは私たちは生き延びることはできません。
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感性のマインドセット
著者は「aesthetic mindset」という言葉を使って、なぜそれが教育者、保護者、そして個人にとって重要なのかを説明しています。
日本語に直訳すると「美的マインドセット」ですが、この訳は誤解を生みそうです。「美的」よりも広い意味を持っているので「感性のマインドセット」の方がより適切な気がします。ここではひとまずそのように訳しておきましょう。
このマインドセットは、身の回りの環境に意識を向け、そこにあるすばらしいものを認識し、目的をもって自分の生活の中に取り込むマインドセットです。
これができる人は、次の4つの資質を持っています。
① 好奇心を持って世界と関わり、
② 遊び心をもって探求し、
③ 鋭い感覚的な認識をもち、
④ 創造的な活動に作る側もしくは鑑賞する側として関わる
実は、私たちは幼少期にすでにこの4つの資質をもっており、これらすべてを「遊び」を通して自然に行っています。幼い子どもたちはとても好奇心が強く、匂いを嗅ぎ、味わい、触り、常に探求し、実験し、観察しています。
私たちは生まれつきアートに適応する能力を持っているのです。私たちは感覚を通して世界を経験し、それが新たな神経経路を生み出し、それを洗練させていきます。
幼い子どもたちにとってアートは能力と回復力を育み、将来避けられないストレスにうまく対処できるようにする点でも役立ちます。
しかし、いわゆる音楽教室などの子供の習い事について考えてみると、ほとんどの教室がこうした基本的なマインドセットを探求したり育んだりことが目的ではありません。
では、どのようにしてそれを可能にする豊かな環境を作り出すことができるのでしょうか?
実は何も難しいことをする必要はありません。
例えば、オレンジの皮をむくことを考えてみてください。皮をむくと同時に広がる香りを嗅ぎ、果肉を味わうといったプロセスの中だけでさえも、脳は様々な感覚を使って驚くほど豊かな体験をしています。
五感によって、神経伝達物質のダイナミックな相互作用が引き起こされ、私たちの感じ方、考え方、行動を形作る数十億もの変化が引き起こされます。その反応は驚くべきスピードで引き起こされます。例えば、聴覚は約0.003秒で脳に記録され、触覚は0.05秒で記録されます。
脳だけでなく、私たちは体全体で外部の世界を取り込んでいます。しかし、その体内の活動のほとんどに私たちは気が付いていません。認知神経科学者は、これらのうち、私たちが意識できるものは5%に過ぎないと考えています。残りの95%の身体的、感情的、感覚的な経験は、私たちの「意識の外」で起きているのです。
私たちのほとんどは、自分を「感じることのある考える生き物」と考えるが、実際には「考えることのある感じる生き物」なのだ。
~ ジル・ボルト・テイラー(フランスの哲学者)Most of us think of ourselves as thinking creatures that feel, but we are actually feeling creatures that think.
~ Jill Bolte Talor
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健康や幸せに役立つアート
例えば、触覚は認知コミュニケーションにおいて最も強力な手段の1つです。それは、人類で最初に進化した感覚システムの1つです。私たちの指先、足先、体中の皮膚には膨大な量のセンサーがあり、入力した情報が生理的、心理的な反応を引き起こします。
私たちは、手を握ったり、ハグを交わしたりするといったシンプルな行為を通して、お互いの気持ちや感情を共有しています。
触覚は、神経伝達物質のオキシトシンの放出によって、私たちの精神状態を急速に変化させます。オキシトシンは、愛情ホルモンであることに加え、信頼、寛大さ、思いやり、そして不安の軽減にも関係しています。
人間の触覚に関する実験では、ある人の悲しみや喜び、気遣いや興奮が、感覚受容器を通して他の人に反映されることが示されました。つまり、私たちは触覚を通して互いに「話す」ことができます。
手を触れることで何かの症状を軽減する専門家がいますが、このような能力も多かれ少なかれ私たちは持っているのです。
また、粘土は特別な素材の1つで、粘土に触ることでオキシトシンとセロトニンが分泌されます。粘土で遊んだり、陶器を作ることでリラックスでき、心安らぐ体験をすることができます。
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アートはトラウマをも克服する
以前本サイトで、脳科学者であるベッセル・ヴァン・デア・コークのベストセラー『The Body Keeps the Score : Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma(邦題)身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』を紹介した際にも書きましたが、私たちの社会は、アートセラピーなどの、健康や医療に役立つアートといった分野や効果を軽視しがちです。
これらの費用は従来の健康保険ではカバーされず、自費負担になるケースがほとんどです。著者のスーザン・マグサメンは、アスペン研究所と共同で、医療と公衆衛生におけるアートのための資金と政策確立の取り組みも行っています。
触れ合い、ダンス、音楽など、他の人たちとのリズミカルな関わりは、医療現場ではあまり利用されていませんが、人間の生理的機能を活性化し、生来の能力を呼び戻すことができます。例えば、トラウマやPTSDを抱える人も、これらの方法で、自らの身体とつながり直し、感情をコントロールするための能力を取り戻すことができます。
戦争を経験した多くの旧兵士たちがPTSDや外傷性脳損傷を抱えていますが、軍隊も、これらの精神疾患からの回復を支援するためにアートを利用しています。本書では、火災で人を助けることができずトラウマを抱えた消防士や、ホロコースト生存者の子孫が、絵を描くことに集中することで、ストレスを解き放ち、トラウマを克服していく事例を紹介しています。
トラウマは避けられないもので、自分には起こらないだろうと思うこともよくありますが、誰にでも起こり得ます。問題は、トラウマに対処しなければ、それが体にこびりつき、取り除いたり軽減したりすることがとても困難になることです。
バイオフィリックデザインという、建物に植物や自然光、水などの自然要素を積極的に取り入れて、人と自然の失われた接点を取り戻し、健康や幸福感を向上させるデザイン手法がありますが、最近は、神経美学の研究を生かして、新たなタイプのデザインも台頭しています。
例えば、アメリカ、デンバーの公営住宅プロジェクトであるアロヨ・ビレッジ(Arroyo Village)は、トラウマ・インフォームド・スペース(Trauma-Informed Space)として設計され、居住者の精神的なニーズを考慮し、自然光がたっぷりと差し込み、各ユニット間の移動に十分なスペースを確保する広い廊下、そして防音対策など、ホームレス、虐待や人種差別によるトラウマを経験した人たちの感覚的なニーズに配慮した設計となっています。
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自然は最強のアート
産業革命以降、生産性や効率を重視するようになり、日常的なアートは横に押しのけられ、私たちは高い生産性を挙げ、高収入を得て、優れた人工物を手に入れることが幸せだという社会に暮らしています。
しかし、私たち人類は歴史上 99.99%の時間を自然の中で過ごしてきました。人工物に囲まれた現代のライフスタイルは人類の歴史の中で 0.01%に過ぎません。
私たちの身体は自然を必要としています。
自然がない都会の方が好きだと言う人が時々いますが、そのように頭の中で「考えて」いるだけで、身体はそのように「感じて」はいません。そのような人たちは、自ら自然と遠ざかることで、無意識に身体はストレスをため込んでいます。
特に最近の子供たちの自然と接する機会の減少は深刻です。
作家でありジャーナリストのリチャード・ルーヴ(Richard Louv)が、2005年の著書『Last Child in the Woods: Saving Our Children From Nature-Deficit Disorder(邦訳)森の最後の子供:自然欠乏症から子供たちを数う』で指摘したように、子供たちは、切実に必要とされている自然の中で過ごす時間を大人たちから奪われています。彼は、「新しい世代にとって、自然はもはや身の回りの現実ではなく、違う世界の抽象的な何か」だと書いています。
子供たちは自然に出かけることがほとんど許されていません。そして、世界が都市化するにつれて、自然の活気に満ちた屋外空間へのアクセスは減少しています。リチャードはこれを「自然欠乏症」と呼んでいます。
自然は、私たちの五感すべてに作用します。私たちをリラックスさせる副交感神経系に強く影響します。草木や川の水などの自然に触れると、アドレナリン、血圧、心拍数が低下します。
自然環境、特に森や水辺の空間がメンタルヘルスに及ぼす影響に関する研究は増えています。2019年に「Frontiers of Psychology」誌に掲載された研究では、自然の中で、あるいは地球とのつながりを感じられる場所でわずか20分過ごすだけで、ストレスホルモンであるコルチゾールが大幅に低下することが確認されました。(1)
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さいごに
私たちは立ち止まって道端の草木の香りを嗅ぐことすら忘れてしまっています。
もっと感覚的な気づきを生活に取り戻すべきでしょう。
まずは小さなことから始めましょう。寝るときに、柔らかな毛布の感触を確かめたり、朝起きてトーストの香りやご飯が炊ける匂いを楽しみましょう。
庭に咲き始めた小さな花を眺めてみましょう。車の中で歌ったり、落書きしてみましょう。日の出や日の入りの空を眺めてみましょう。
アートは、生物学的特徴や感情状態を変え、精神的な健康を向上させる活動だと考えましょう。栄養を改善し、運動を増やし、睡眠を十分とることと同じように考えるのです。何より嬉しいのは、その恩恵を受けるのに、上手い下手は関係ないことです。
本書はアートが様々な形で社会にインパクトを与える多くの事例を紹介しています。そのパワーをより深く理解し、解き放つことができれば、人として、コミュニティとして、社会が抱える課題のいくつかを解決できるかもしれません。
アートは、私たちをより健康に、より幸せに、より賢くしてくれます。
アートは私たちの身の回りにあふれています。私たちはそれに気づくことを忘れているだけなのです。
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参考文献
(1) Mary Carol R. Hunter, Brenda W. Gillespie, Sophie Yu-Pu Chen, “Urban Nature Experiences Reduce Stress in the Context of Daily Life Based on Salivary Biomarkers“, Front. Psychol., Volume 10 – 2019, 2019/4/4.
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