記憶に関する私たちの思い込みの多くは誤っています。例えば、記憶は、過去の出来事をそのまま記録したものではありません。思い出すたびに書き換えられていきます。今回はそのような記憶に関する様々な誤解を正していきます。
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はじめに
出張で泊まったホテルの部屋で、夜中に急にベッドから飛び起き「あれ、ここはどこだろう?」とか「なぜ、いつもと違うベッドに寝ているんだろう?」と思った経験はありませんか?
何かをしようと思ってキッチンに入って「あれ、何しに来たんだっけ?」と立ち止まったことはありませんか?
初めて訪れた見知らぬ街で、目に入った光景に既視感を覚えることは?
家の鍵がいつも置いてある場所になく、あちこち探しまくった経験は?
(なお、私は妻から「いつも同じところに置けばいいのよ!」と言われます。汗)
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今回はこれらの記憶に関する疑問に、書籍『Why We Remember(邦題)人はなぜ記憶するのか - 脳と自己の科学』を紹介しながら、答えていきます。
この本の著者のチャラン・ランガナス(Charan Ranganath)は、カリフォルニア大学デービス校の神経科学センターおよび心理学部教授で、ダイナミック・メモリー・ラボのディレクターを務めています。25年以上にわたり、脳画像技術、計算モデル、記憶障害患者の研究などを通して、過去の出来事を記憶する脳のメカニズムを研究してきました。
この手の脳科学系の書籍の中ではとても読みやすいと思います。記憶という私たちの生活に直結するテーマであることや、分かりやすい事例を多用していることもその要因でしょう。その一方で内容は深く、一般の方でも「へ~」と思う部分が多々あるでしょう。ご関心がありましたら、ぜひお手に取ってみて下さい。
なお、いつも通り、私はオリジナルの英語版を読んでおり、日本語版は読んでいませんので、表現の違い等についてはご了承ください。
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記憶に関する間違った思い込み
ランガナスは、記憶に関する私たちの一般的な思い込みの多くは誤っていると述べます。
「どうしてこんなに物忘れがひどいんだろう?」私たちはよく自問しますね。
人の名前、家族との会話、昨日の夕ご飯、さらには今何をすべきだったかでさえ忘れてしまうことがあります。
しかし、問題は記憶力にあるのではなく、そもそも私たちが記憶に対して間違った期待を抱いていることにあります。
私たちは過去のすべてを覚えるようにはできていないのです。むしろほとんどのことを覚えないようにできています。
私たちの脳の能力は限られています。
出張で泊まったホテルの部屋番号をいつまでも覚えておくのは現実的でないだけでなく、限られた機能の無駄遣いです。また、もしありとあらゆる記憶を膨大に溜め込んでしまったら、必要な時にそれを取り出すことも困難になるでしょう。
そのため、「なぜ私たちは忘れるのか?」と問うのではなく、「なぜ私たちは特定のことだけ覚えているのか?」と問うべきなのです。
では、あることだけを覚えている背景にはどのようなメカニズムがあるのでしょうか?
その答えの1つは、注意(attention)と意図(intention)です。
注意とは、脳が何を見て、何を聞き、何を考えるかを優先順位付けする方法です。私たちは常に、周囲のさまざまなものに注意を向けています。
ただし、私たちが気が付かないうちに、脳が何かに注意を向けていることもあります。ここで意図が重要になります。後から思い出せるような記憶を作るには、何かに集中して、意識的に注意を払う必要があります。そうすることで、より鮮明な記憶を構築することができるのです。
意図だけでなく、感情(emotion)も、注意と記憶形成において重要な役割を果たします。喜びや恐れといった感情は、それを引き起こした出来事と結びつき、記憶を無意識に呼び起こしやすくなります。感情を強く刺激する出来事は、ノルアドレナリンなどの化学物質が神経可塑性を促進し、より鮮明に長期記憶に刻み込まれる傾向があります。
私個人に関して言えば、過去の天気や気温などを他人よりもよく覚えています。去年やおととしの桜がどの位長く咲いていたかとか、おととしの12月は乾燥して雨が降らなかったとか、梅雨がなかったとか、私にとっては当たり前の記憶なのですが、驚くことに周囲のほとんどの人たちが覚えていません。多くの人にとって大した情報ではないため、意識が向かないのでしょう。
私は山登りやトレイルランによく出かけていて、天気に注意を払ったり、季節や風景の移り変わりを楽しんでいるので、意図的にも、感情的にも、注意が払われているのかもしれません。
また、私は景色で場所を覚えることが多いですが、私の妻は店で場所を覚えることが多いと言います。例えば「あの角にデニーズがあった」とか「その先に味の民芸があった」などです。私はランニング途中でトイレに行ったり、飲み物を買ったりするため、コンビニの場所は覚えていますが、どのようなレストランがどこにあったかはほとんど覚えていません。

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書き換えられていく記憶
記憶に関する私たちの間違った思い込みは他にもあります。
記憶は過去の出来事をそのまま記録したものだという思い込みです。
実は、記憶は、思い出すたびに書き換えられていきます。記憶の想起は、記憶を脳の奥底から取り出すというよりも、経験を再想像することに近いからです。認知心理学の先駆者の一人であるフレデリック・バートレット(Frederic Bartlett, 1886 – 1969)は「記憶は思い出すときに生まれる」とさえ言います。
記憶の想起は、ハードディスクの読み込みでも、過去の録画再生でもないのです。リプレイするたびに新しい情報が取り入れられて、変化していくのです。
記憶は、同じ本を本棚から取り出して何度も読み直すというよりは、同じ本を何度も書き直すようなものだとも言えるでしょう。または、写真ではなく絵画のようなものとも言えます。写真は現実を写しだす一方で、絵画は書き手のその時の動機や意思や感情が反映されます。
つまり、記憶は過去を表すものだけではなく、今も表しているのです。
記憶を紡いで語り直すという行為によって、過去の出来事が歪められていくことがあります。また、私たちの記憶は、他人の記憶と干渉し合ったり、より権限がある人の圧力を受けて書き換えられていくこともあります。
その結果、起きていない出来事をまるで実際に起きたかのように覚えてしまうこともあります。そのため、記憶は信頼性に欠けることがあるのです。
例えば、「お前がやったんだろう!白状しろ!」と繰り返し圧力をかけられることで、罪を犯していないのにも関わらず、自分が罪を犯したと記憶が書き換えられる事例があります。
目撃証言も同様です。繰り返し質問されたり、誘導されたりすることで、見ていないものを見たと記憶することが可能になるのです。人間の記憶は柔軟で暗示にかかりやすい性質を持っているため、目撃証言は不正確なことがあるのです。
ただし、そのように強制的に作り出された記憶は、細部が欠落しています。つまり、書き換えられた記憶によって、自分が罪を犯したと覚えることができても、実際はやっていないため、具体的にどう犯罪を犯したのか、詳細は覚えていないのです。
これは、偽りの記憶、虚偽記憶(false memory)などと呼ばれます。
次のような分かりやすい実験があります。実験の参加者は、次のような単語を記憶するように指示されます。
FEAR, TEMPER, HATRED, FURY, HAPPY,
ENRAGE, EMOTION, RAGE, HATE, MEAN,
IRE, MAD, WRATH, CALM, FIGHT
そして、これらの単語を後で思い出すように指示されます。この中に「ANGER」という単語は含まれていませんね。しかし、多くの回答者が「ANGER」が含まれていたと答えます。
偽りの記憶が生まれる背景には、暗示、関連する情報の活性化、情報の誤認など、様々なメカニズムがあります。
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脳は出来事をかたまりに分けて記憶する
冒頭、「キッチンに入ってきて、そもそも何のためにきたのか思い出せないという経験をしたことがみなさんにもあるでしょう」と書きました。
これは記憶障害によるものではなく、「イベント境界(event boundaries)」と呼ばれる正常な心理現象によるものです。
人間の脳は連続した体験を、そのままではなく 「出来事のかたまり(イベント)」に分割して記憶します。小さく区切った方が管理しやすいからです。そして、場所や環境の変わり目を「イベントの区切り」として認識します。
部屋を移動するような場所の大きな変化は、脳が情報をリセットするきっかけとなります。そのため、部屋が変わったとか、場所が変わったなどの理由で思い出せなくなることがあるのです。
人は、出来事の最中よりも、境界線で起きた出来事の方を良く覚えている傾向があります。これは、脳の海馬(hippocampus)がイベント境界の直後に記憶を保存する仕組みになっているためと考えられています。
以前の記事で、デフォルトモードネットワーク(DMN)と呼ばれる脳領域の集合体が記憶に関わっていると書きました。
DMNは出来事を分解し、誰がそこにいたか、何がそこにあったかという部分と、出来事がどこでどのように展開したかという部分を別々に処理することができます。
レゴブロックに例えると、DMNはブロックで、海馬は説明書にあたります。DMNには記憶の原材料とも言えるブロックがあり、海馬には、特定の出来事を記憶するためにこれらのブロックをどのように組み合わせるかといういくつもの指示書があり、ブロックを組み合わせて「シーン」を構築するのです。
異なる説明書を使うことで、同じブロックでも、さまざまなシーンを再現することができます。
海馬の活動は、イベント境界でDMNと通信する際に活発になります。
学生時代によく訪れた場所に何十年ぶりに訪れることで、長く思い出すこともなかったさまざまな思い出が急に蘇ってくることはありませんか?
音楽が脳に及ぼす影響に関する記事でも書きましたが、私の場合、学生時代に聞いた音楽を耳にすると、当時付き合っていて一緒に聞いていた彼女との甘酸っぱいような様々な思い出がよみがえってきます。また、ジャックフルーツなど、南国のフルーツの匂いを嗅ぐと、ベトナムでの駐在の日々やインドネシアへの出張時の思い出が蘇ってきます。
これは1つの手掛かりによって、昔の多くの出来事が引き出されるからです。
逆にこのような手がかりがないことで、記憶が埋もれてしまうことを手がかり依存性の忘却(Cue-dependent forgetting)と言います。
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過去の記憶も、未来の想像も、「シーンのシミュレーション」
このことから、将来起こりうることを想像するプロセスも、過去に起こったことを思い出すプロセスとそれほど異なるものではないことがご理解できるでしょうか?
つまり、「昨日の会議」を思い出すとき、私たちは、会議室の様子や、参加者の顔、会話の断片などのブロックを組み合わせてシーンを作ります。
「来週のプレゼン」の準備をするために来週の会議を想像するときも、同じように、会議室の様子や、参加者の顔、会話の断片などのブロックを組み合わせてシーンを作るのです。
つまり、過去の記憶の想起も、未来の想像も、脳の同じ仕組みで行われているのです。記憶が過去に対するシミュレーションである一方で、想像は未来に対するシミュレーションなのです。
よって、経験や記憶が豊かで、その組み合わせ能力に長けている人は、創造力に長ける傾向があるのです。
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既視感について
冒頭紹介した疑問点に「初めて訪れた見知らぬ街で、目に入った光景に既視感を覚えることはありませんか?」もありました。
著者のランガナスは、記憶想起を大きく2つに分けています。
1つは「Familiarity(既知感)」で、見たことある気がするけど、どこで・いつかは思い出せないものです。もう1つは「 Recollection(想起)」で、いつ・どこで・誰とを思い出せる、文脈(コンテキスト)付きの記憶です。
既視感はこの2つがズレた状態です。脳が過去と似たパターンを検出して「Familiarity」はオンになっているのですが、それを特定のシーンに結び付けることができず「Recollection」がオフになっているのです。その結果、「初めてのはずなのに、なぜか知っている感じがする」という感覚が生まれるのです。
これは、脳のパターン認識能力が高いことの副作用とも言えます。脳は、素早く状況を理解し、危険や機会を即座に判断するために、高いパターン認識能力を持っているのです。
なお、皆さんには「喉まで出かかっているのに思い出せない」経験もありますよね。
これは「Familiarity」も「Recollection」もオンになっているのですが、出口で詰まっている状態です。「舌の先」まで来ているのでTOT現象(Tip-of-the-Tongue)とも言います。
適切な手がかりがなかったり、いつもと違う文脈で思い出そうとしているために起きることがあり、いったん考えるのをやめたり、別の手がかりを探ることで、詰まっていたルートや違うルートが開くことがあります。
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年を重ねるにつれて変化する能力
誰もが、年を取るにつれて、物忘れをひどく感じられるでしょう。
前頭前野(prefrontal cortex)と呼ばれる脳の部位の働きによって、私たちはある事柄に注意を集中させることができます。
しかし、前頭前野は、高齢期に入ると最初に衰える領域の1つで、その結果、物忘れがひどくなるように感じます。
幸いなのは、ほとんどの高齢者にとって問題なのは記憶能力そのものの低下ではなく、注意を集中させる能力の変化が、出来事の記憶の仕方に変化をもたらしているということです。
例えば、年を取るにつれて、出会った人の名前は思い出せないのに、その出会いに関するその他の情報は鮮明に覚えている、といった経験があるかもしれません。
取るに足らないことを思い出す傾向は、年齢を重ねるにつれて強まります。数多くの研究で、高齢者は、周囲に気を散らすものが存在し注意を払う必要が求められる状況では、若年者よりも記憶力が劣ることが示されていますが、気を散らす情報を記憶することに関しては、若年者と同等、あるいは場合によってはそれ以上の能力を発揮することもあります。
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さいごに
最後に、記事の冒頭で紹介した記憶に関する残りの疑問点に答えていきましょう。
【疑問点】出張で泊まったホテルの部屋で、夜中に急にベッドから飛び起きて「あれ、ここはどこだろう?」とか「なぜ、ここにいるんだろう?」と思った経験はありませんか?
これは、飛び起きた直後で、今いる場所や状況に関する記憶(文脈)がまだうまく呼び出せていないために起きます。つまり、記憶へのアクセスが一時的に遅れている状態です。
記憶をたどるにつれて、「昨日の午後、東京から金沢に新幹線で出張に来て、お客さんと打ち合わせと夕食を済ませた後にチェックインし、そのまま寝てしまったんだった」と一連の出来事が再構成され、ようやく状況が理解できるようになります。
なお、私は大学を卒業してから何年も経つにもかかわらず「やばい、このままでは単位不足で卒業できない!」とベッドから飛び起きることが何度かありました(笑)。これは、睡眠中に、当時の不安を伴う記憶が再活性化され、現実との区別が弱まった状態で「今の出来事」として再構成されて起きたものでしょう。幸い、もうこのようにして起きることはなくなりました(幸)。
【疑問点】家の鍵がいつも置いてある場所になく、あちこち探しまくった経験は?
これらも似た仕組みで説明できますね。私たちの記憶は出来事の流れ(エピソード)や状況(文脈)と結びついているため、手がかりがないと一時的に思い出せなくなることがあります。そのため、「仕事から帰ってきて、時計を外して、手を洗って、服を着替えて…」と出来事を順番にたどっていくと、その時の状況が再現され、「そういえば昨日は帰宅してすぐ電話がかかってきたので、ソファに座って鍵をそこに置いてしまったんだ!」と思い出せることがあります。
このように、記憶は手がかりをもとに再構成されるため、出来事をたどることで思い出しやすくなるのです。皆さんにも同じような経験があるのではないでしょうか。
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最後のさいごに、日々の記憶力を向上させるためには、意識を集中させ、その瞬間の雑念を最小限に抑えるように心がけましょう。視覚的なイメージを鮮明に思い浮かべることで、後で情報を思い出すのに役立つ記憶の手がかりを意図的に作り出すことができます。
また、記憶は「覚える」ことよりも「思い出す」ことで強化され、より強く定着します。日々の出来事を振り返ったり、振り返り学習を定着させたり、誰かに話したりすることも、記憶を育てる有効な方法です。そして、不要なことは忘れることもまた、脳にとっては情報を整理する大切な働きです。
様々な経験を積んだり、新しいことを学んだりすることは、脳を活性化させ、創造的な発想を生み出すのに役立ちます。私たちの記憶は、出来事だけでなく、そのときの状況や感情と結びついているため、体験を豊かに味わうこと自体が記憶を深めることにもつながります。
記憶とは、過去の自分だけではなく、今の自分、そしてこれからの自分を形づくるものでもあるのです。