変革は時に以前の状態に戻ろうというメッセージで達成されます。創業時は、情熱にあふれ、チャレンジ精神にあふれていたものの、年月を経て失敗を許さない保守的な姿に変わってしまう企業は多いです。そのような会社では、不確実な未来への挑戦よりも、馴染みのある過去の姿を取り戻すというメッセージの方が受け入れられやすい場合があります。
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ドミニク・カミングス(Dominic Cummings)は、英国の政治アドバイザー・政治戦略家で、英国のEU離脱(ブレグジット:Brexit)キャンペーンの立案者であり、同キャンペーンを勝利に導いた立役者の一人でもあります。2020年11月までボリス・ジョンソン首相率いる保守党の上級顧問を務めました。
EU離脱キャンペーン当初のスローガンは「Vote Leave, take control:離脱に投票を。主導権を握れ」でした。この時点では英国民の大多数の賛同は得られていませんでした。
しかし、カミングスは、人間の「現状維持バイアス」と「損失回避」の認知バイアスを良く理解していました。
「現状維持バイアス」とは大きな変化や未知への不確実性を避け、現状を維持する事を望む人間の心理作用です。
「損失回避」は、①得と損が半々の確率、②得も損もしない、という二者択一があるとすると、①を選択するよりは②を選択する、つまり損することを避けようとする人間の心理です。同等の損得の比較であれば、得をする時に得られる満足感より、損をする時の精神的ダメージが大きいからです。
カミングスは、スローガンを「Vote Leave, take back control:離脱に投票を。主導権を取り戻せ」に変えました。「take control」の真ん中に一文字「back」を付け加えたのです。
「take control」というスローガンでは、国民に、現状を打ち破り変化を求める、つまり現状維持を打ち破れというメッセージを与えてしまいます。しかし、私たちは現状維持を望みます。しかも、EU離脱派は保守系が多いですから、チャレンジを求めるこのメッセージへの賛同を得る事はできませんでした。
しかし、スローガンを「take back control」に変える事で、「今の現状が、かつてあった良き現状から逸脱した状態なのだ。かつてあり、そして失われた居心地の良かった現状を取り戻そう」というメッセージに変えたのです。つまり「離脱する事こそが現状維持」という意識を国民に植え付けたのです。
結果はご存じの通り、2016年のEU離脱是非を問う国民投票にて、EU「離脱」票が「残留」票を上回り、離脱派が勝利を収めました。
もちろん、「かつてあった現状」が本当により良いものなのかという点に関しては、定かではなく賛否があるところです。しかし、このEU離脱キャンペーンの戦略は「現状維持バイアス」、「損失回避」の人間の認知バイアスをうまく利用し、共感を得ました。
アメリカの政治やビジネスでも「Back to standard」「Back to basic」というメッセージが聞かれることもありますね。日本でも「原点回帰」という言葉があります。
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これを企業に当てはめると、VUCA(ブーカ)と言われる急速に変化し不確実さや不安定さが増す現在の社会において、多くの組織で変革が求められています。これは、多くの企業の現状が、ビジネス環境にそぐわない組織になっているという事の裏返しでもあります。
多くの大会社が創業から数十年の時を経て、そして昭和の高度成長期を経て、経済成長や消費拡大を前提にした予定調和型の社会環境にマッチする組織に変化しました。具体的には、仕事やプロセスを標準化し、エラーを可能な限り排除し、計画は確実に実行し、規律に従順に従う従業員を高く評価するという組織です。
しかし、今求められているのは、予測不可能な社会環境において、トライアル・アンド・エラーを繰り返す事で学習を継続し、既存のルールや手段に捉われず、目的達成のために自律的に動ける人間と組織です(過去の参考記事)。
実は「変われない会社」の多くに求められる組織の在り方は、数十年前の創業当初の組織の原点の姿にあったりします。
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日本的組織の問題を説いた名著「失敗の本質」(3)は下記のように述べています。
戦後の日本の企業組織にとって、最大の革新は財閥解体とそれに伴う一部トップ・マネジメントの追放であった。これまでの伝統的な経営層が一層も二層もいなくなり、思い切った若手抜擢が行なわれたのである。その結果、官僚制の破壊と組織内民主化が著しく進展し、日本軍の最もすぐれていた下士官や兵のバイタリティがわき上がるような組織が誕生したのである。
戦後、偉大な経営者や企業が次々に誕生した経緯はここにあります。つまり戦時中の日本軍の硬直した日本型階層組織の負の構造が敗戦によって一気に解体され、抑圧され埋もれていた優れた人材の可能性を解き放ち、モチベーションが高く、情熱にあふれ、イノベーティブ、自律的な経営者と企業、従業員が次々と誕生したのです。
残念ながら令和になった現在でもなお、昭和の高度成長期を引きずり、日本軍に類似した日本型階層組織の負の構造から転換できない企業は多いです。今、戦後の日本同様に、多くの埋もれてしまっている潜在能力を解き放たなければなりません。
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変革がうまくいかない企業は、創業時の組織や当時の仕事に対する姿勢・あり方を振り返ってみては如何でしょうか?
未知への「変化」であれば抵抗が生じますが、かつてあった自分自身への「回帰」であれば抵抗が少なく、創業者には総じて敬意があるはずなので、彼らが実行し切り開いてきた事実を否定するのは難しいでしょう。
もちろん何十年前の創業時と現在ではデジタル技術や労働環境、社会情勢、法令等々、ビジネス環境は大きく異なります。プロセス等の回帰ではなく、組織の本質的な部分の回帰です。
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参考文献
(1) Susanne K Schmidt, “An institutional mismatch: why ‘taking back control’ proved so appealing“, London School of Economics and Political Science, 2020/5
(2) Pat Kane, “Alternative Editorial: Dominic Cummings tries to ‘take back control’. Here’s the alternative“, The Alternative UK, 2019/7
(3) 戸部良一、寺本義也、鎌田伸一、杉之尾孝生、村井友秀、野中郁次郎, “失敗の本質 日本軍の組織論的研究”, ダイヤモンド社, 1984/5