交渉の専門家ハーブ・コーエン(Herb Cohen)は、ネゴシエーション(交渉)はゲームだと言います。相手と議論したり口論せず、何が本当の望みなのか、相手の頭の中にあるものと自分の頭の中にあるものを理解します。真剣になり過ぎると、視野が曇りそれが見えなくなります。
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はじめに
ネゴシエーション(交渉)で欠かせないのは、お互いの頭の中にあるものを理解することです。お互い何を望んでいるのか、お互い何が問題で、何が双方を困らせたり悩ませているのか、言葉にされない相手のニーズと自分のニーズを探求し、それらを同時に満たすものを見つけるのです。
そのためには、自分が正しいと信じて一方的に自分の考えを主張したり、相手を説得しようと話したてるのではなく、相手に集中して言い分を聞き、書き留め、相手が何を求めているのか、態度や言動の背景にある動機、関心、価値観を深くかつ幅広く探ることです。
人は、自分が見たいものを見る傾向があります。膨大な情報の中から、自分がすでに持つ認識を裏付けるような事実を選び出し、それに焦点を当てます。自分の認識と反する事実は無視したり、軽視したり、曲解する傾向があります。私たちが見ているものは、私たちが信じるもの、すでに知っていると思っているものによって決定されます。私たちは目で見ているのではなく、脳で見ているのです。
相手の態度がどんなに理不尽だと思っても、相手の立場から見れば合理的です。それぞれが置かれた文脈においては、誰もが正しいのです。例えば、この文章を書いている2022年8月現在、残念ながら未だロシアによるウクライナ侵攻の収束が一向に見えませんが、プーチン大統領から見れば、彼自身が行っていることはすべて彼の道理にかなっているのです。
私たちは、相手に対してだけでなく、自分自身に対しても誤って認識していることがあります。前回、ポジション(Position)と本意(Principle, Interest)を説明しました。ポジションは自分の意図を言葉として表したものに過ぎず、それが多少でも本意(Principle, Interest)を表現していればまだよいですが、自分の本意の一部さえ表現していない場合もあります。ネゴシエーションの相手として最もやっかいで難しいのは自分自身であり、また、自分自身のために交渉することが一番難しいのです。
図:相手の頭の中にある本心を理解する

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アメリカの交渉専門家、ハーブ・コーエン(Herb Cohen)
前回はネゴシエーション(交渉)に関する名著「Getting to Yes:ハーバード流交渉術」の共著者であり、共に国家レベルの交渉の専門家である、ウィリアム・ユーリー(William Ury)とロジャー・フィッシャー(Roger Fisher)を紹介しました。 今回紹介するハーブ・コーエン(Herb Cohen)もこの2人と同様にアメリカの交渉専門家で、民間および政府レベルの世界中の様々な交渉の場面で活躍してきました。日本人を含む600人が人質となった1996年の在ペルー日本大使公邸占拠事件や、1979年のイランアメリカ大使館人質事件の解決にも関わっています。以下、彼のネゴシエーションの哲学の一部を紹介しましょう。
ネゴシエーションはゲーム。真剣にやるが、真剣になり過ぎない
コーエンは、ネゴシエーションはゲームだと言います。 とても重要ではあるが、それほどではない(care, really care, but not that much)。つまり真剣にやるものの、真剣になり過ぎないことです。真剣になり過ぎると、私たちはどうしても感情的になります。イライラしたりストレスを抱えます。そして、私的感情が絡むとネゴシエーションが成功するのは難しくなります。自分自身のためにネゴシエーションする場合は特に感情的になったり、自分のエゴやプライドが正しい判断をじゃまします。交渉と自分の感情とを切り離さなければなりません。他人の交渉事を代わりにやってあげている位の心の余裕が必要です。
時に相手から理不尽な言動を受けたり感情的な暴言を吐かれたり、行き詰まりを感じたとしても、「気遣いはするけど、気にし過ぎない」という一歩引いた態度で臨むことが大切です。
客観的な第3者の目で広く状況を見て、争点が1点だけになることは避け、多くの選択肢を探すのです。 争点が1点だけの交渉の典型例は、金額だけの交渉ですが、1点だけの交渉は可能な限り避けます。ゼロサムゲームになったり、結果が勝者と敗者に分かれるからです。金額以外の論点を見つけ交渉に持ち込むことです。良い選択肢を多くもつほど良い結果を得られます。
相手に「自分の方がかしこい」と思わせる
下のYoutubeはネゴシエーションに関するコーエンの講義を紹介していますが、私はコーエンの話し方やリラックスした雰囲気がとても好きです。常にフレンドリーに接し、能力を隠して控えめに対応し、時にバカっぽく振舞ったりさえします。コーエンは、交渉においては、時に相手よりスマートだと思わせないことが大切だと言います。相手に「自分の方がかしこい」と思わせるのです。 相手にとって、一番やり易い交渉相手はスマートで道理が分かる人間で、逆に道理を知らない人間は交渉相手としてはとても難しいのです。
相手と議論したり、口論しない
コーエンは、交渉の場で、絶対に相手と議論したり口論したりしません。相手のどこが間違えているのか、愚かなのか、劣っているのか、間違った知識を持っているのか、指摘することはしません。仮に、相手の弱点を攻撃したり相手の主張を押し切って勝ったとしても、その勝利は一方的かつ自滅的です。前回も紹介したように、対峙するのではお互いが同じ方向を向き協力して双方に望ましい結果を目指すのです。コーエンは交渉の場では、相手と向かい合って座るのではなく、隣り合って同じ方向を向くように座るそうです。
図:共に同じ方向を向く
交渉には自分は知らないという前提で臨みます。多くの人は自分が知っていることを前提に交渉に臨みます。そして、さらに悪いことに、それが真実だと勘違いしています。相手の欠点ではなく優れた点に関心を寄せ、相手をできるだけ知ろうとし、自分が知らないこと、理解できないことは「あへ、すみません、理解できないので助けてください」と相手に助けを求め、質問を重ね、説明をお願いするのです。
たとえ自分が答えを知っていたとしても相手に聞くのです。自分が話すのではなく相手に話させるのです。そして相手を決定のプロセスに引き入れます。相手がそのプロセスに時間とエネルギーを費やせば費やすほど、相手はどうしても結果が欲しくなります。 人は最初は自分が欲しいものに一生懸命尽力するのですが、最終的にはその関係が反対になり、時間をかけて一生懸命尽力したものが欲しくなるのです。
最終目標は、両者が自主的に「Yes」と言うこと、相手を「No」から「Yes」に移動させること
コーエンは、ネゴシエーションの最終目標は、両者が自主的に「Yes」と言うこと、相手を「No」から「Yes」に移動させることだと言います。相手を抵抗や不支持のポジションから、前向きでコミットメントがある状態に移動させることであり、両者がネゴシエーション前の状態よりも共に良くなっていることが理想です。
もちろん、「No」から「Yes」にひとっとびで移動することはできません。その間には「う~ん」とか「よく分からないな。。」とか「ちょっと考えさせてくれ」などの確認のステップがあります。そのステップを経て「この場合はどうなる?」とか「なるほど」とか「それはこういうことですか?」といった深く理解していくステップがあり、最終的に「Yes」に移るのです。 相手の立場で物事を見るのは難しいかもしれませんが、交渉においては最も重要なスキルです。よいネゴシエーションとは、相手を説得するのではなく相手を納得させるものなのです。
謝る
コーエンは謝るのが好きだと言います。相手の話が理解できなければ、「あああ、すみません、私には理解できないので、もう少し説明してもらえますか?」とお願いします。
例えば、打ち合わせに15分遅刻した時も「電車が人身事故で止まってもう大変でした」とか「渋滞にまきこまれてしまって。。」と言い訳するのと、「たいへん申し訳ありません。もっと早く出てくるべきでした。完全に私の責任です」と対応するのとでは、相手に与える印象が全然違います。不思議なことに自分の非を完全に認めると、相手はそれを否定してきます。つまり、「いや15分位じゃないですか、全然構いませんよ」と言ってくれたりさえします。たとえ自分が85%悪くても15%しか悪くなくても、100%自分の責任だと謝るのです。
相手がどんなに難しく、高圧的でも、常に協力的で相手に敬意を払います。最初に述べたように、ネゴシエーションは、客観的な現実に対してではなく、また、相手の外見や相手から発せられる感情に対してでもなく、お互いが頭の中に持つ幻想に対して行います。
自分自身に正直になる
自分自身に正直になることも重要です。私のお気に入りのコーエンのやり取りを紹介します。
コーエンは以下のような質問を受けます。
”女性がある会社から仕事のオファーを受けました。彼女はその会社に言いました、「ありがとうございます。でも今の給料の方が1万ドル高いんです。」すると、彼らに「問題ありませんよ。私たちはその給料に合わせます。そのためには給与明細が必要なので送って頂けますか」と言い返されます。実は、彼女の今の給料の方が1万ドル高いなんて全くのでたらめで、その給与明細ももちろんありません。彼女はどうすればよいでしょうか?”
コーエンはこう答えます。
”私なら、まず謝ります。正直に「すみません、嘘をついていました」と謝ります。すると相手は驚くでしょう。普通、誰もそんなに正直に答えないからです。さらには次のようにも言います。「嘘をついてすみませんでした。それでもやはり、もう1万ドル頂けますでしょうか?」なぜなら、それが彼女の偽りのない本心で真実だからです。どうしても1万ドル欲しいなら、正直にそう言うのです。真実を話せば、相手はショックを受けますが、相手も真実を語り始めるのです。
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最後に
私たちには自分が思う以上に力があります。相手がどんなに自分より力があっても地位が高くても、自分の力を過小評価しないことです。私たちは、自分の力を過小評価し、相手の力を過大評価しがちです。私たちは自らにリミッターをかけています。どんな状況にあっても、ネゴシエーションは可能です。相手の意識と時間を少しでも自分に振り向けることができれば、相手が誰であろうが何であろうがネゴシエーションできるのです。
コーエンは、最高のネゴシエーターはこどもだと言います。こどもは目指すものが高く、物おじせず、簡単にはあきらめません(ま、こどもにもよるでしょうが)。 忍耐は最高のネゴシエーターが持つ素質です。両親にだめだと言われると、おじいさんやおばあさんに歩み寄り、タッグを組んで両親の牙城を崩そうとします。また、こどもは相手が誰であろうと自分が望むものを伝えることができます。
私たちも相手が社長だろうが役人だろうが自分が望むものを伝え、相手の関心を引くことができるのです。
もし、ハーブ・コーエン(Herb Cohen)やネゴシエーション(交渉)についてご興味がありましたら、下記の書籍をご一読ください。