すべてのものは移り変わります。私たちは外で起きる出来事をコントロールすることはできませんが、自分の心はコントロールできます。変化に惑わされてはなりません。出来事そのものに有害なものはありません。害を及ぼすのは自分の解釈です。苦しみのほとんどは、出来事そのものではなく、解釈から生まれます。
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はじめに
冒頭、ちょっとショッキングな出来事をお伝えするかもしれませんので、あらかじめお知らせします。
時々書いているように、私は登山やトレイルランが好きで、山に出かけない時は、家の周りの森林公園や自然公園などを走っています。
先日の週末も、明け方まだ暗いうちに自宅を出発して、そのような公園をいくつか繋いで走っていました。
その中の1つ、木々が深く茂った自然公園の中を走っていて、その公園の中心にある高さ80mほどの小さな山の頂上へと向かう短い上り道を駆け上がっていると、視界の先の、朝日が照らし始めた山頂にある、大きな木の枝からロープを通して何かがぶら下がっている。。。
最初は人形かと思いました。
ハロウィンが終わってしばらく経っていましたが、誰かの悪質ないたずらか、周りに誰かいるのではないかとも思い、辺りを見回しました。しかし、辺りに人はいませんでした。
見えていたのは人形ではなく人の後ろ姿でした。 まるでサスペンスドラマのワンシーンのようでしたが、それはテレビではなく現実でした。
まだ薄暗く、人の気配もない場所で、私はそれ以上近づくことができずに、少し離れたところから何回か声をかけましたが返事はなく、110番通報しました。
通報は119番に転送され、間もなく救急隊が駆けつけ、応急処置を施しますが、息を吹き返すことはありませんでした。
亡くなったのは20代と思われる男性です。
そこは、天気の日には東側に遠くまで街並みが広がる眺めの良い山頂です。その東側を向いて亡くなっていました。余裕はなかったかもしれませんが、最期に夜の街の明かりを目に入れることはできたでしょうか。
事情聴取のため、私はさらに20分ほどそこに留まってから山を離れ帰路につきました。麓の道路脇には緊急車両が6台ほど停められていました。帰宅後に、警察署から簡単な確認のための電話を受けました。
直後は様々な思いと感情がめぐりました。
しかし、翌日になって、私は彼の人生の終わりに偶然接した何人かのうちの1人として、何かを残したいと思いました。
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マルクス・アウレリウス
今回紹介したいと思ったのは、ローマ皇帝であり、ストア派(ストイック)哲学者のマルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius, 121-180)が書いた『Meditations(邦題)自省録』です。
「哲人王」とも呼ばれるマルクス・アウレリウスは、皇帝としては異例の謙虚さと理性を持ち、他者への奉仕を重んじたリーダーシップの模範と言える人物です。
アウレリウスがローマ帝国を統治した161年から180年までの時代は、国境の争いや疫病の蔓延に特徴づけられる時代でしたが、知恵、規律、そして与えられた役割を受け入れる義務感で、冷静さと理性を持って困難に立ち向かいました。
アウレリウスはこれを本にするために書いたのではなく、戦いの最中や移動中などに自分自身のために書き記したものが後でまとめられたものです。その特性上、この本から何かを得るために、最初から読み始める必要はありません。最後まで全部読む必要もありません。どこからでも順序関係なく読むことができます。
しかし、いかんせん古い文章なので、言葉の使い方やつながりが追いにくいところもあり、決して読みやすいと言える本ではありません。私は英語版しか読んでいないので、ひょっとしたら日本語版はもっと読みやすいかもしれませんが。
ただし、内容は抽象的な理論ではなく、とても実践的です。形而上学ではなく、日々の暮らし方に焦点を当てています。厳しい内容も含まれていますが、私たちがどう生きるべきかを具体的に示しています。
私はこの本を読むと、なぜか心が静かになって落ち着くことができます。
ご興味があれば、気が向いたところからゆっくりと読んでみてください。
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Nature
全体を通してこの本に流れる核となるメッセージは、「理性と徳に従って生き、自分がコントロールできることに集中し、外的な出来事は受け入れ、たとえ困難であっても、人に優しく接する」ということです。
この本には「nature(自然、φύσις、physis)」という言葉がよく登場します。
彼はこの言葉で何を意味しようとしていたのでしょうか?
アウレリウスは「nature(自然)」という言葉を、次のような複数の意味で使っています。
1.世界の秩序としての「nature」
アウレリウスは、この世界には秩序があって、私たちを含めたすべてのものが相互に関連していると言います。そこで起こることのすべては、より大きな秩序の一部です。
世界は絶えず再生し続けます。私たちの人生は変化する世界の1つの点にすぎません。万物は変容し別の何かへと移り変わりますが、全体は残ります。失われるものは何もありません。
四季が移りゆくように、世界は、静かに、着実に、そして終わりなく続いていきます。視界から去っていっても、万物の秩序から消え去るわけではありません。
自然は私たちに命と言う形で一定の時間を与えてくれます。そして、ある時、かつて自らの一部であったものを優しく取り戻します。私たち自身も、私たちが愛する人たちも、消え去るのではなく、もとあった場所へと帰っていくだけです。この世の中から完全に消え去るものは何もありません。ただ形を変えるだけです。
すべての命は、長い物語における一瞬の出来事ですが、どんな瞬間も取るに足らないものではありません。人がその存在を通して与えたものは、形を変えた後も、ずっと後まで、波紋のように広がり続けます。
アウレリウスが「自然に従って生きる」と言うとき、その秩序を受け入れることを意味します。
私たちに起きるすべての出来事を、より大きな物事の一部として受け入れるのです。
2.人間の本質としての「nature」
すべての物はつながっており、それぞれに異なる役割があります。人間にも、この世界における決められた役割があります。
それは、理性を利用すること、社会性を持つこと、正義を貫くこと、公平さをもって行動し、他者と協力して公益に貢献することです。
そのため、アウレリウスが「自分の本質に従って生きなさい」と言うとき、彼が意味するのは、理性的、高潔であり、他者に奉仕して生きることです。
アウレリウスは不平を言わず自分の役割を果たすことを強調しています。私たちは同じ世界の一部であり、同じ世界を共有しているため、自分勝手に行動することは非合理的です。自然が許す限り使命を全うするのです。
私たちは皆、束の間の道を歩んでいます。私たちは誰もが小さく儚い存在です。同じ自然の循環の中でそれぞれに違う役割を与えられて生きています。このことを知ることで、私たちはお互いに対して優しくなれるはずです。
3.自分自身としての「nature」
人は皆、固有の「本質」、つまり個性、人格、気質、能力、そして世界における役割を持っています。
自分に与えられたものを全うするのです。
正しいことをしていれば、その他のことは問題ではありません。他人の評価を求める必要も、他人の判断を恐れる必要もありません。他人が見ていようがいまいが、自分がやるべきことをやるのです。
過去に生きてはいけません。それはもう過ぎ去りました。
未来を恐れてはいけません。それはまだここには来ていません。
あなたがコントロールできるのは、今この瞬間だけです。今この瞬間に集中して考え行動するのです。
あなたが進もうとする道を妨害するものが現れるかもしれません。しかし、そのような妨害でさえも新たな道になります。障害は自分を強くする機会です。障害を善へと転じることができます。
他人になろうとしてはいけません。自分にも他人にも期待を持ち過ぎてもいけません。
あなたの心はあなたが持つことを許す思考によって染められてしまいます。あなたが繰り返し考えることがあなた自身になってしまいます。
人生の質は思考の質次第でどうにでもなってしまいます。内にあるものを守らなければなりません。それがどんな自分であろうと、自分の役割が何であるかを理解し、徳をもってそれを果たすのです。
不必要な欲望を捨て去り、正義、勇気、自制心、知恵といった原則に何度も立ち返るのです。そうすれば、決断は複雑なものではなく、シンプルなものになります。
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コントロールできるものに集中し、それ以外のことは受け入れる
繰り返しますが、この本の中心的なテーマは、「自分がコントロールできるものに集中し、できないものは受け入れる」ということです。これはストア派(ストイック)哲学の最もよく知られた核となる思想でもあります。
外的な出来事は制御できません。しかし、自分の判断、選択、態度は制御できます。
特に、アウレリウスは、他者との関わりにおいて、扱いにくい人との付き合いに苦労することが多いと、次のように繰り返し書いています。
- 朝目覚めたら、干渉好きで、恩知らずで、傲慢で、欺瞞的で、嫉妬深く、非社交的な人たちに出会うことを覚悟しなさい。
- 彼らがこのように振る舞うのは、彼らが悪い人だからではなく、無知で善悪の区別がつかないからだ。人は無知ゆえに悪い行いをする。しかし、あなたは善と悪の違いを知っている。だからそのような人たちから害を被るべきではない。
- 誰もあなたに悪事を強制することも、あなたの心の善良さを損なうこともできない。
- ただし、あなたはそれらの人たちと同じ性質を持っているので、彼らはあなたの同胞であり、敵ではない。
どんな時代でも、例え自分が皇帝であっても、扱いにくい人はいるんですね。アウレリウスでさえ私たち皆が現代で抱えるのと同じフラストレーションを抱えていたのです。それを知ると多少気が楽になりますね。
彼は、困難な人たちに出会うことは避けられないと自分に言い聞かせ、そしてストア派哲学の原則に沿って自らを落ち着かせ、彼らに心を乱されないよう努めることから一日を始めました。
彼は私たちにこうアドバイスします。
- 人は誰でも、無知、不公平、あるいは利己的になり得ることを覚悟する
- 難しい相手にも、忍耐、そして誠実さをもって対応する。相手を恨むのではなく、理解する
- 他人の行動に左右される必要はない。彼らの悪癖に付き合う必要もない
- 彼らの判断には一貫性がない。そのような人の意見にいちいち腹を立てたり、気にし過ぎることはない
- 他人の心を読んだり、承認を得たりしようとして時間を無駄にしない
- 彼らから承認に何の価値もない。重要なのは、自分が徳と調和して生きているかどうか
- 贅沢や虚栄、快楽に屈しない
- 名声や権力は脆く意味がなく、時間と共に忘れ去られる。人生そのものさえも一時的だと理解する
- 感情に支配されないこと。反応を自分で選択すること
- 嵐が襲っても動じない岩のように穏やかに、感情を保つ訓練をすること
- 気を散らすものを避けて、自分がすべきことに集中すること
- 謙虚さを保ち、シンプルに、そして目的を持って生きること
おごる人も、へつらう人も、すべてがいずれ消え去っていきます。名声も評判も賞賛も一時的なものに過ぎず、いずれ消え去ります。それらは本質ではありません。どうせなくなるものに執着しすぎないことです。
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皇帝としての役割を果たす
マルクス・アウレリウスの謙虚さや公平さはローマ皇帝としては異例です。
アウレリウスは、権力や名声は一時的なものに過ぎないと言います。徳こそが唯一の善であると説きます。
しかし、それではなぜ、そんな彼が皇帝まで昇り詰め、戦い続けることができたのでしょうか?
実は、彼は皇帝になろうとしてなったのではありません。むしろ、その役割を受け入れたのです。
少年時代、アウレリウスは並外れた規律、真摯さ、知性を示し、それに気づいたハドリアヌス帝が養子として皇族に迎え入れます。彼は若くして将来の後継者として選ばれました。
アウレリウスはその後長きにわたり、哲学、法律、行政、軍事について学びました。栄光を求めたからではなく、召集に備えることが自分の義務だと考えたからです。
人生では自分の役割を選ぶことができないことがあります。しかし、一旦与えられた役割は、徳をもって果たすのです。個人的な欲望や快楽よりも義務を果たすことの方が大切です。
彼は常に自分に言い聞かせました。
「自分の仕事をしなさい。公共の利益に奉仕しなさい。権力や名声に堕落するな。」
彼は贅沢を避けるよう努めました。皇帝となってからも、質素な生活を送るよう努めました。
しかし同時に、彼は依然として絶大な権力を持つ皇帝でした。
彼は帝位を拒絶したのではなく、義務として受け入れました。
地位を全うすることが自分の義務であることを受け入れていました。
彼は権威を自分のためではなく、人のために用いて安定を維持しました。世界の混沌に翻弄されながらも、敵国の侵入に備え、国境での戦争を戦いました。責任から逃れるのではなく、責任の中で徳を伴って行動するように努めました。
彼は人からの賞賛を信用しませんでした。それは自尊心を肥大させ、徳から目を逸らさせるとても危険なものだからです。賞賛がどれほど浅薄なものかを忘れないように常に自分に言い聞かせました。
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さいごに
アウレリウスは皇帝になることを望んだのではなく、選ばれたのです。
権力を求めたのではなく、権力を持つ人間として選ばれたのです。
そして、彼は個人的な欲望よりも人に対する責任を重んじ、権力を与えられた人間が果たすべき役割を受け入れました。
彼は自らを国家の奉仕者と考えて、その役割を果たしました。
アウレリウスは、権力によって傲慢になったり堕落したりすることを戒め、個人の栄光のためではなく、人々のためにリーダーとして行動しました。
アウレリウスが皇帝に選ばれたように、私たちも、生まれた時からすでにある道を進むように選ばれ、あるいはある道は進めないように選ばれています。
他人を貶むのでもなく、自分を驕るのでもなく、その道を進むのです。
他人を妬むのではなく、自分を恨むのではなく、その道を進むのです。
自分の道を歩み進んでさえいれば、その他のことは問題ではありません。
彼は次のように書いています。
誇りを持たずに受け入れ、執着を持たずに手放せ。
Receive without pride, let go without attachment.