私たちは「長期的な目標」を立てても、その達成を妨げる「短期的な欲求」にすぐに負けてしまいます。長期的な目標は長く努力し続けないと達成できませんが、短期的な欲求はなんの努力をすることもなく楽に手に入れることができるからです。セルフナッジは、そのような短期的な欲求に打ち勝ち、長期的な目標に行動を向かわせる手助けをします。
~ ~ ~ ~ ~
システム1とシステム2の思考
2002年にノーベル経済学賞を受賞した、世界的な心理学者・行動経済学者であるダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman)の2011年の大ベストセラー「Thinking, Fast and Slow(邦題)ファスト&スロー」で有名になった私たちが持つ2種類の思考に「システム1」と「システム2」があります。
システム1は、私たちがおこなうほぼ瞬間的な決断のプロセスで、自動的、直感的、無意識に、本能や感情によって生まれます。
システム2は、より時間をかけて考えるゆっくりとした思考のプロセスで、意識的、論理的で、複雑な計算なども含みます。システム2は、より大きな努力や意識の集中が必要です。
私たちの多くは、自分自身の行動を意識して、考えた上で決めていると思っています。つまりシステム2を使っていると思っています。しかし、システム2を使って判断しているつもりでも、私たちが取る選択肢の多くはシステム1の影響を強く広く受けています。
なお、このような2つの異なる思考のプロセスが存在することを心理学では「二重過程理論(Dual Process Model)」と言います。
~ ~ ~ ~ ~
ナッジ(nudge)とは?
例えば、私たちは、意識的なシステム2の思考プロセスを使って「長期的な目標」をたてます。
それは「体重を3か月で10キロ減らす」とか「明日から早起きして月10回以上朝ランする」とか「○○大学に合格する」などかもしれません。
しかし、そのような長期的な目標を立てたものの、つい甘いものに手を出してしまったり、飲み会で食べ過ぎてしまったり、夜更かしして目覚まし時計で起きられず二度寝してしまったり、机に向かってもスマホをいじってばかりいて、目標を達成するための行動に移れません。
私たちの「長期的な目標」は「短期的な欲求」に妨害されます。多くの場合「短期的な欲求」は努力することなく、とても簡単に手に入れることができます。しかし「長期的な目標」は長期に渡り努力し続けないと成果を得ることはできません。
「短期的な欲求」はシステム1によって生まれます。そして、システム1とシステム2が私たちの頭の中で争い合い、システム1が打ち勝ってしまうのです。システム1は時に私たちの命を救うような瞬間的な判断をしてくれる重要な役割を果たしますが、私たちを楽な方向へと向かわせる働きをすることも多いのです。
以前、本サイトで「ナッジ(nudge)」を紹介しました。ナッジとは、人がより良い意思決定をおこなえるように、ちょっとした介入を行う行動科学のアプローチです。
禁煙、節約、運動など、すでに興味を持っているにもかかわらずそれを実行に移すのが難しいと感じている人に、強制したり、金銭で誘導したり、選択肢を排除することなく、ヒジで軽く突ついたり、そっと背中を押してあげるように、望ましい選択肢を取るための手助けをすることです。
例えば、手を洗う習慣がない海外の国々で、トイレの後に手を洗う習慣を広めるために、ばい菌まみれの手のイラストが描かれたポスターを壁や扉に貼ったり、効果的な位置に手洗い場がくるようなレイアウトにしたり、トイレから手洗い場に誘導する矢印や足跡を床に付けたりすることなどで、できるだけ意識させることなく、手を洗うように誘導するのです。
つまり、ナッジとは、システム1を逆に利用して、無意識に私たちを望ましい方向へと誘導するものです。
ナッジが効果を上げるためには、2つのステップを踏む必要があります。まず、対象となる行動を特定する必要があります。第2に、人がより良い解決策を選びやすくするために選択肢の見せ方を変えたりする「選択アーキテクチャ(choice architecture:人が望ましい意思決定をおこなうように導くプロセス)」を設計する必要があります。
重要なのは、ナッジされる人がナッジを意識したり、その背景にある心理的メカニズムに気づく必要がない点です。実際、ナッジされる人がその仕組みについて何も知らない方がナッジは効果を発揮します。(1)(2)
~ ~ ~ ~ ~
スラッジ(sludge)とは?
消費によって経済が成長し、経済が成長し続けることで私たちが豊かになることを前提とした現代の社会では、私たちは、必要以上に食べたり、飲んだり、必要でない物を買い続けることが求められます。そして、企業はそのために、私たちの脆弱なシステム1を巧みに利用します。その結果、世界人口の多くが、体重が少ないことで亡くなる人より体重が増えすぎたことで亡くなる人が多い国に住んでいます。(1)(3)
私たちは、ありとあらゆる場面で、自分にとって望ましい選択肢を取ることを難しくされられたり、逆に自分にとって望ましくない選択肢を取るようにナッジされています。私たちの脳は、私たちが社会や企業が望むように行動するようハイジャックされているのです。
このように私たちが良い方向に向かうのを妨げ、不利益をもたらすダークサイドバージョンのナッジを「スラッジ(sludge)」と言います。
スラッジの影響は、近年さらに深刻になってきています。インターネット、スマートフォン、ソーシャルメディアなどの登場で、気が付けば私たちは、いつも画面をクリックしたり、スクロールしておきたい衝動から抜け出せなくなりました。自分で考えたり「長期的な目標」は横に置いておいて、スマホを取り出してインスタやフェイスブックを眺めたりゲームをし続けるといった「短期的な欲求」を満たすシステム1による行動を取るように組み込まれてしまっているのです。
現代社会において、ネット社会ほど人間の行動を巧みにコントロールする選択アーキテクチャはないでしょう。この種の選択アーキテクチャは企業の商業的利益を最大化することを大きな目的に設計されています。
~ ~ ~ ~ ~
セルフナッジ(Self-nudge)で自分を変える
「セルフナッジ(Self-nudge)」とは、自分自身にナッジをかけることで、自分に望ましい結果をもたらすため、自らの行動パターンを変えるように自分を後押しすることです。
ナッジは、世界各国の政府によって、国民によりよい選択肢を取ってもらうように、公共の施策に利用し始めています。しかし、一方で、意図せず公共の施策がスラッジを生み出してしまうこともあります。
短期的な快楽から抜け出したり、スラッジのダークフォースから抜け出すためには、私たちはすべてを他人任せにしておくことはできず、私たち自らも行動しなければなりません。
しかし、先にも述べたように、私たちはどうしても、長期的な成果よりも、短期的な快楽に流れてしまいます。その誘惑に打ち勝つために、システム2の力を最大限に使って、日々意識して油断することなく自分を律することは容易ではありません。そのため、システム1を逆利用するのです。
セルフナッジを効果的に設計し機能させるためには、まず、自分の行動と自らがおかれた環境のアーキテクチャとの関連性を認識し理解することが必要です。そして、その関連性を断ち切ったり、修正するように、選択アーキテクチャを再設計するのです。
セルフナッジを効果的にする選択アーキテクチャにはいくつかの種類がありますが、その中で比較的簡単なのが「アクセシビリティの操作」と「デフォルトの設定」です。
「アクセシビリティの操作」の典型例は、「スマホを目の届かないどこか遠くに置くこと」です。
近くにあるからつい手に取って見てしまいます。そして、一度見始めると、つい何十分にも渡って見続けてしまいます。遠くにおいて、取りに行くのを大変にすれば、誘惑に負けることは少なくなるでしょう。
お菓子も手が届くところにあるから、つい手に取って食べてしまいます。棚の奥に置くとか、家のお菓子スペースを限定して、それ以上は店に買いに行かないと食べられないようにすることもセルフナッジの一例です。
実際、カフェテリアでも、スーパーマーケットでも、八百屋でも、魚屋でも、食べ物や食材がどのように陳列されているかは、私たちがどれを選んで買うかという選択に大きな影響を及ぼします。私たちは、遠くにあるものよりも、手に取る距離にあるもの、目につくところにあるものを選ぶ傾向があります。スーパーマーケットのエンド(商品が陳列されている長い商品棚の両端の棚)に置かれた商品は、通常の陳列棚に置いた場合に比べて約2倍の売上をもたらすとも言われます。
つまり、誘惑に負けないためには、それを自分から遠ざけておく、目立たなくしておくことはとても効果があるのです。(4)
「デフォルトの設定」の例としてまたスマホに関して言えば、「通知機能を解除すること」が挙げられます。例えば「通知しない」をデフォルト設定に変更するのです。スマホだけでなく、パソコンやSNSの設定を変えることも考えられます。設定を変えるときに一手間かかりますが一度変えてしまえば、あとは何もする必要はなく、通知音にいちいち気を取られることはなくなります。
給与から天引きして給与の一部を自動的に毎月貯蓄や投資されるようにしたり、健康的な食品を定期購読して自動的に配達されるようにすることもデフォルトの設定によるセルフナッジの事例です。
~ ~ ~ ~ ~
さいごに
2022年も押し迫った時期にこの文章を書いていますが、そろそろ来年の目標を考えたり、年が明けて新しい1年の目標を立てる人も多いでしょう。しかし、ほとんどの年初の目標は、せいぜい数か月しかもたないか、実行されることすらありません。
システム2によって長期的な目標を掲げても、それを阻害するシステム1に対する手当が全くなされないからです。
最近の研究で、自制心の強い人とそうでない人は、実はあまり変わらないということが分かりました。「規律正しい」人たちは、強い意志の力や自制心を必要としない方法で、自分の行動を簡単に導くことに長けているのです。言い換えれば、誘惑的な状況に身を置く時間やきっかけを減らすことができているのです。これを向上させるには、自分がもっと規律正しい人間であってほしいと願うのではなく、より規律正しい環境を身の回りに作り出すことが必要なのです。(5)
自分を望ましい方向に進むのを妨げているのは何なのか、妨げているものを簡単に取り除くためのナッジはないか考えてみてはいかがでしょうか?常に努力を要したり、強く継続的な意志がないと続かないようなものは、やはり途中で力尽きて続かなくなってしまいます。自分を強く律するのではなく、環境を変えること、環境を変えることで楽に続けることができるようなセルフナッジを考えてみてください。
~ ~ ~ ~ ~
参考文献
(1) Samuli Reijula, Ralph Hertwig, “Self-nudging and the citizen choice architect“, Behavioural Public Policy, 6(1), pp.119-149., 2022/1.
(2) Stephen S. Holden, Natalina Zlatevska, and Chris Dubelaar, “Whether Smaller Plates Reduce Consumption Depends on Who’s Serving and Who’s Looking: A Meta-Analysis“, Journal of the Association for Consumer Research, Volume 1, Number 1, pp.134–146., 2016/1.
(3) Boyd Swinburn, Garry Egger, Fezeela Raza, ‘Dissecting obesogenic environments: The development and application of a framework for identifying and prioritizing environmental interventions for obesity’, Preventive Medicine, 29(6): 563–570. 1999/12.
(4) Tamara Bucher et al., “Nudging consumers towards healthier choices: a systematic review of
positional influences on food choice”, British Journal of Nutrition, Volume115, Issue12, pp.2252-2263, 2016/6.
(5) James Clear, “Atomic Habits: An Easy & Proven Way to Build Good Habits & Break Bad Ones”, Avery, 2018/10.